2017年10月3日火曜日

病理の話(127) 嫉妬と引き下ろしとプロの力

臨床家は、ときにこういうことを言う。

「ケッ、そりゃ直接病気を見られりゃ誰だってわかるよ」

病理は細胞を直接見てるんだから、病気のことがわかって当たり前だ。けれど、そもそも医術というのは、直接細胞を見たりしなくても病を言い当てるべきだし、そうしないと患者のためにならない。

内科学は、病を「言い当てる」ことを本流とする。直接答えを見に行くというのはすなわち「邪道」。



こんなかんじで、ときおり、病理はバカにされる。「お前ら直接見てんじゃん。そりゃわかるわ」。

(おおげさだ、そこまで言う医者なんかいない、と思いましたか? 残念、実際に言われた事があります。それもネットではなく、現実の話)




もしもの話をしよう。

病気、例えば胃がんとか肝臓がん、肺がんなどのがんにかかった人を「完璧に診断する」ことだけを目的として、もう何をしてもOK、いくらでも金を出してくれる、処理もぜんぶ誰かがやってくれる、患者もその家族も全てを許してくれるとなったら、究極的にはどうやって検査したらよいだろうか?

答え。人体を細かく切り刻めばよい。それこそ、短冊切りみたいに、頭のてっぺんから足の先まで。

病気の本体がどこにあるか。

病気はどのような形をしているか。

どこにどれだけ転移しているか。

全部わかるであろう。

もちろん患者は絶命するけれども。

病気の正体はすべてわかることであろう。

なんなら全ての細胞をぜんぶ遺伝子検査に回しても良い。

人体を全部薬品で溶かして全解析するというのもアリかもしれない。腸内細菌のゲノムまで混じってすごいことになるだろうが。

マンガ「もやしもん」で、樹教授も言っていた(正確には長谷川に予測されていた)。究極のところは「人体実験」ができればいろいろ解決するのだと。




でも、それはやらない。できない。当たり前である。

検査の本質とはここだ。「いかに対象を大きく破壊せずに、一部だけから全体を読み取るか」。

内科の診察で、口の中をのぞき、胸の音を聞き、腹を指で叩き、手で押し、あるいは話を聞き、病気の姿を浮き上がらせるというのはまさに検査の本質である。中を直接見ず、触らずに、言い当てる。これが「医の本道」である。




ただ、がん診療は、それでは足りない。どれだけ精度の良い「類推」であっても、最新の治療の恩恵を十分に受けようと思ったら、足りないのだ。「カタマリがある」だけではだめだ。「カタマリによって体が弱っている」だけではだめだ。カタマリがどんな細胞によって構成されており、その細胞がどのような性質をもち、体の中にミクロのレベルでどれくらい分布しているのかを、きちんと見る必要がある。

がん細胞がミクロの世界でふるまう挙動ひとつひとつが、将来像を予測するヒントになり、治療の選択にも関わる。

たかだか5 μm程度しかないリンパ管と呼ばれるパイプの中にがん細胞が1個入り込んでいるのを見つけただけで、「あっ、まずいな、転移の可能性が高くなったぞ」と警戒し、追加の治療を検討するというのが、現在行われているオーソドックスながん診療である。髪の毛の太さが100 μmくらいだ。体の外から見て触って、どうにかなるレベルではない。

だから細胞を見に行く。「しぶしぶ」細胞まで見に行く。病理医に細かく見てもらう……。




勘の良い方はお気づきだろう。

病理医は、嫉妬のような心に晒されている。

君ら、細胞見てズバズバものを言ってくれてるけどもさあ。

そりゃ俺らはそこまでわかんないけれどもさあ。

そんなの、医術じゃないじゃん。

それに、君らしかわかんない言葉で説明されてもさあ。

その5 μmのリンパ管に入ってるのががん細胞だって、もはや俺らには区別つかないんだけどさあ。

それホントのことなの? 君の胸先三寸で決まっちゃうんじゃないの?

まあ、あるかないか、見てればわかることなんだからさあ。

間違わないでくれよな。

まかせてるけどさ。

俺らにはわかんねぇんだからさあ。





ぼくは、「無理もないよな」と思う。

病理は医の本道ではないのだ。直接見てしまっているのだから。うらやましがられて、当然。

だから、もう少しだけ努力をしようと思い始めて、そろそろ10年が過ぎる。




臨床医も今や多くの武器を持つ。それはCTやMRIのような断層診断機器であったり、内視鏡(胃カメラや大腸カメラ)のような光学機器だったり、エコーのような音響工学機器であったりする。

内科医も、実は直接見ようとしている。

病理にまかせきりにせずに……。

「医の本道は類推である」と言いながら、その実、見に行くようになったし、手を出すようになった。

循環器内科医は、心臓カテーテルを入れて、直接心筋梗塞を治療しに行く。

消化管内科医は、胃カメラからナイフを出して、がんを切り取って治療してしまう。





「ケッ、そりゃ直接病気を見られりゃ誰だってわかるよ」

こう言われるのがつらいなあ、と思って、無理もないよなと思って、もう少し臨床に近づいてみようと考えていたちょうどその頃。

臨床医も、直接病気を見ようとしはじめていたのだ。




そして、臨床と病理は、ときどき、おなじものを見ている。

「ケッ、そりゃ直接病気を見られりゃ誰だってわかるよ」

から、

「同じ病気をお互いに違う角度から見ているわけですけれど、そっち、どうっすか?」

に、いつしか変わってきたように思う。




こうなってくると。

病理という役割の重要性が知れ渡ってうれしい、となる反面。

もはや病理医だけが細胞を見ているわけじゃないからな、という、「アドバンテージの消失」にも気づく。

「俺ら、さすがに細胞の核がどうとかいうオタクっぽいところはわかんねぇけどさあ、細胞がどういう形でつながってるかとか、どこで細胞が死んでるとか、それくらいなら自分で見られるから、いちいち病理医が説明してくれなくても大丈夫だよ」

くらいには、なっている。



この構造、何かに似ているように思っていた。

さきほど、気づいた。




SNSを毎日眺めていると、タイムラインには本当にたくさんのマンガや写真が流れてくる。

中には、プロの漫画家やプロの写真家かと見まがうくらいのクオリティの、「趣味創作」もいっぱい目にする。

そういうのを見て、ああ、今の時代、プロの漫画家とか写真家として食ってくのは大変だなあ……と、思っていた。

だって誰でもできるんだもんなあ、発表の場所だってこうしてSNS上にあるわけだしなあ。




先日、札幌のデパートで、羽海野チカの原画などを展示する展覧会をやっていたのだが、原画をみて本当に驚いてしまった。

うまい、とか、きれいだ、とかではなく、語りかけてくるエネルギーが段違いなのである。

ああ、これがプロの仕事なんだなあと思った。

その仕事で食おうとする人の、プロとしての「力の籠め方」に、圧倒された。




もしかして、現代医療において「病理でメシを食っていく」というのは、これと同じ構造なんじゃないか。

「プロレベルの同人作家」と同じように、「細胞をめちゃくちゃ理解している臨床医」が増えてきた今、「プロとしての漫画家」に対応するのが「病理医」なのではないか……。




原画展をゆっくり見て回っていた。会場は大盛況で、文字通り老若男女がさまざまな原画の前で足を止め、見入っていた。

ここにいる人の幾人かは、将来、漫画家になろうと思うのだろうか。

それとも、マンガが好きな、別の世界の人として暮らしていくのだろうか、と、考えていた。