2017年11月21日火曜日

病理の話(142) 社会的文脈が定義する診断という行為

なぜその治療をするのか? という疑問をないがしろにしてしまうと医療はいろいろゆがむ。

お金をかけて、たとえば入院をして、あるいは通院をして、本来自分が自由に使えたはずの時間を失って、その代わりに得るものは何か?

寿命? 痛みのないくらし? 不安のないくらし?

時間を失って時間を手に入れるような治療、というのもある。「半年入院したことで半年寿命が延びました」。入院中だって人に会ったり考えたりしているわけだから、半年寿命が延びるのならば1年入院したってよい、という考え方もある。しかしここまで来ると要は考え方の問題なのだ。患者によってはそんなことは許されないと考える人もいるだろう。

つまり、治療とか生活維持を目的とした医療というのは、最終的には個人の価値観にかなり左右される。



これに対して、「診断」は医学的に行うものだから、個人の価値観が関与する余地がない……というのは、正しいだろうか?



ぼくは、ときに「診断」も社会的に行われる場合があるよなあと思っている。



何度か書いたことであるが、たとえば半年間で人の命を奪う病気があったとしたらそれはほぼ100%の人が「致死的な、まずい病気」と考えるであろう。

このまま放っておいたら心臓が止まるケガ、というのは誰がみても「命に関わる病態」だとわかる。

しかし、あくまでたとえではあるが、「200年後に確実に人を殺す病気」というのがあったら、それは致死的な病気と呼んでよいだろうか?

そんなものは、きっと、「命に別状がない状態」として扱われるだろう。200年生きることがそもそも(現状では)不可能なのだから。



極論ついでに言う。高度に進化したロボットが意志を持っていたとして、彼らは自らを不死ととらえるだろうか? ぼくは、ロボットも自らを不死だとは思わないのではないかと思う。

「5000年も経つと、サビや破損などの経年劣化で絶対に動けなくなります。人間にとって5000年は悠久の時でしょう、しかしぼくらロボットにとっては、それはあくまで有限、かぎりがある、ということであり、人間と同じように少し遠くに死を感じているのです」

くらいは言うのではないか。



診断というのは実は主観的な、社会的な、文脈的な概念である。

「核が大きいから悪性」というのも方便だ。そこには、人間社会という背景によって「何を悪いとみなすべきか」という文脈が成立しているからはじめて成り立つ意図というものが含まれている。




これをわからないままに診断学をすすめようとすると、どこかで必ず穴に落ちる。

治療、維持、あるいはもっと広く、「その時代が規定する、人生と病気の関係」というものをきちんと考えずに診断をすると……。

ものすごく古い「ことわざ」にひっぱられて、ピントはずれの医療論を語ってしまうことにもつながるのだ。


What's the difference between a physician, a surgeon, a psychiatrist, and pathologist ? The physician knows everything and does nothing. The surgeon knows nothing and does everything. The psychiatrist knows nothing and does nothing. The pathologist knows everything, but always a little too late.


「内科医、外科医、精神科医、病理医の違いを知ってるかい? 内科医はなんでも知ってるけどナンにもしない。外科医はナンにも知らないけど何でもする。精神科医はナンにもわかってないしナンにもしない。病理医は全てを知っているがいつだって少し手遅れだ。」



上にあげたものはまさに、大昔の社会が規定した「医学」であって、今の時代にはまったくあてはまらない。現代において、病理医は全てを知ることはできず、かつ、いつだって少し早めに動くべき職業人なのである。