京都のワインバーは白を頼んでも赤が出てくるしメニューを音を立てて置くしでとにかく一見を放り出したいのだろうという気構えが伝わってきた。我々はそれでもボトルを開けながら本の話をしていたのだ。
途中から合流した写真家とぼくはいろいろな話をした。
病理医というのは写真家にあこがれるものなのだ、ということ。
細胞を染めるときに使うヘマトキシリンはアマゾンだったかナイル川だったかの流域に生えている植物から抽出するのだという話。
フィルムの写真が表現する粒子にこだわりたいのだということ。
ポートレートを撮る際に、シャッターを5分くらい開きっぱなしにしていると何かがにじみ出てくるのだということ。
ぼくの臓器を取り出して、台の上に置いて、30分くらいシャッターを開きっぱなしにして、写真に撮ったらきっととんでもないものが撮れるのだろうな、ということ。そしてそれは、きっと世の中にはキャッチーすぎるから、出してはいけないものになるのだろう、ということ。
編集者はこの話を商売にできるのではないかと20回くらい言って酔いを深めていったので、ぼくは何かの記事を書かされる前にここに記しておくことにする。
現象を切り取って絵に残すこと、写真に残すこと、文章に残すこと、これらに共通するのは何か?
元あったものを完全に写し取ることではなく、そこに作者・撮影者・執筆者の意思が入ってどこかにピントが合い、なんらかの構図をとることこそが、大事なのだということ。
ぼくはこれを学問の庭で語り、写真家はこれを人間の温度で語っていたように思う。
http://www1.odn.ne.jp/~cbe35240/photography/top_j.htm
編集者は酒が強くトレンチコートを着こなし頭が異常によいイケメンなので、いつか20分くらいのシャッタースピードで写真を撮って魂を抜いてやればいいのだ。
彼は文学の用語を話した。優れた書き手には筆力以上に「ボイス」があるのだという。
脳だけが旅をして、文だけが声を出す。
しかし写真もまた語る。ぼくは写真家に、
「病理の写真は、空きスペースにいっぱい解説を書いておくのですよ。昔の病理医はそうやって、デジタルではなかった貴重な写真に自分の知恵と科学をぎゅうぎゅうに詰め込むようなことをしていたんです」
と語った。写真家は静かにうなずいて、それを見てみたいなあ、と中空に何かを書くような動きをした。