2017年11月24日金曜日

病理の話(143) がんとにらみ合え

がんが発見されるとき、がんというのはすでに「大軍」である、という話をする。


がんが見つかるとはすなわち、人の目に見えるほどカタマリが大きく育っているということであり、あるいは患者の体に悪影響を及ぼすほど(なんらかの症状が出るほど)まわりを攻撃している、あるいは押しやっているということである。

がんは、がん細胞のカタマリだ。がんという単一の悪人がいるわけではなく、「がん軍」という兵士の集まりである。兵士ひとりひとりががん細胞だ。ただひとりで人体のどこかに潜んでいたり、数人とか数十人でゲリラ的に活動をしているときには、遠目から見ても、そこに悪人(がん)がいるということに気づけない。何十万人という徒党を組んで、大軍隊になってはじめて、認識することができる。

がんを倒すには、この大軍が少しでも小さいときに見つけて粉砕すればよい……のだが、じゃあ、どれくらい小規模なときに叩けばよいのだろうか?

1人? それはそうだろう、1人しかいないならば、悪人は成敗しやすい。しかし、これをあえて抗がん剤とか放射線で叩こうとすることに何か意味があるだろうか。

東京23区のどこかに1人だけ極悪人がいる。それをターゲットに、東京都全域を焼き尽くすような爆弾を投下することに倫理があるだろうか。

1人だったら、爆弾など用いずとも、普通の警察機構がはたらいていれば、倒すことができるだろう。普通の警察機構とはすなわち、免疫のことだ。人体には四六時中、免疫という名の警察が存在している。町のあちこちに毎日何人も生まれてくる悪人は、生涯を通じて、この免疫警察が取り締まっている。

そう、ぼくもあなたも、今この瞬間にも体のどこかで常にがんの芽が生まれている。しかし、99%以上の確率で、そのがんは早いうちに取り締まられているのだ。

だから、がん細胞1個を標的とした治療というのは過剰なのである。今日、ぼくに抗がん剤を打つことに、なんの正当性も見いだせない。



逆に、大軍として育ち切ってしまったがんを倒すのもまた困難だ。

大軍を要して、周囲の善良な人々を苦しめてやまない軍隊には、いろいろな隠し球がある。全身に斥候を飛ばしている。遊軍があちこちに控えている。大軍を滅ぼしたとしても、各地に潜伏した残党が、再び旗を立てて襲いかかってくる。



つまり、軍隊ができて、それがこれから明らかに国を脅かすような規模に育ち切る前段階で取り締まる……のが理想なのだ。現代、医学が進歩して、がんが発見されても治療によって十分に長く生きることが可能となったが、それは「がんを克服した」のではない。がんの勢力を見極め、軍隊がほどよいサイズであるものに適切な治療ができるようになっただけで、大軍であれば今も倒しきることは困難である。また、軍隊とは呼べないサイズのチンピラ集団を「がんだ!」と言って総攻撃するようなことも、結局は国を傾ける。




がんを考えるには、それががんであるという”質的診断”だけではなく、がんがどれくらいのサイズの軍隊なのか、どれくらいの勢力でどこに分布しているのかという”量的診断”が不可欠だ。これはUICC/TNM分類と呼ばれる国際分類や、がん取扱い規約と呼ばれる日本の分類によって細かく調査される。

どこからが「治療に値するがん」なのかというのは、大きすぎてもだめ、小さすぎても不利益、という大変難しい問題。これを解決するには、無数の人を観察し、多くの統計学的処理を行う、数学の力が必要である。




「がんと戦うな理論」は不完全である。

「まだがんになっていない、チンピラ集団に爆弾を落とすな」はおそらく正しい。

「すでに大軍すぎて倒しきることが不可能ながんに爆弾を使うな」もおそらく正しいが、だったら悪の軍隊相手に何もしないでよいのか、という問題がある。すでにこのブログでも2度ほど書いてきたが、相手が強すぎて倒せない場合でも、たとえば川中島で対峙して結着がつかなかった武田・上杉軍の戦争のように、「相手が勢力をこれ以上増やさないように、均衡を保つ技術」というのは存在する。これは「戦わないこと」ではない。「かしこい戦い方をすること」にあたる。

西洋医学は、なんでも爆弾投下する医学ではない。

「がんとうまく戦え理論」だったらもっと多くの人が幸せになるだろう。もちろん、人はいつだって、なぜ悪がはびこるんだ、あの悪人達を一刻もはやく成敗できないものか、と苦しむだろうが、人体という巨大な国を守る国家元首が誰かといえば、それはあなたの脳・知性であり、為政者たるもの「理想はままならないが、最善は尽くせる」というココロモチの元に、やさしい政治をしていただければなあ、と思う次第である。