「声に出して読みたい日本語」というフレーズ自体を声に出してみたいと思う時がある。
「写真を撮っているカメラマン」を写真に撮りたいときもある。
「応援団」を応援している。
「辛そうで辛くない少し辛いラー油」は……少し辛いラー油、でいいと思う。
何の話かよくわからなくなったが、カギカッコでくくったとたんに、カギカッコの中身を俯瞰したくなる病におかされている。この病はおそらく空気感染する。今の社会にはすでにこの病がすみずみまで侵略していると考えてよい。
ツイートというのは何かにカギカッコをつける作業に近い。
写真が風景を切り取った途端に、写真のほうが現実の風景よりも雄弁になることがあるように。
カギカッコは何かのフレーズを主人公にしてくれる。
だからついカギカッコを多く使ってしまう。ぼくのツイートにはカギカッコの出現頻度がとても多い。かつて、このブログをはじめる際に、ブログでは意識してカギカッコを使いすぎないようにしようと思った。次第にそのことを忘れ、最近また、頻用するようになっている。
何かを強調してみせたい。
だれもが語っていい事実をあえて自分が語るのならば、その切り口にわぁっと喜んでほしいと思う。
だからカギカッコを使う。ぼくはここに着目したんだよ、このフレーズに意味があるんだよと。
吉野朔実が亡くなったあと、ぼくは吉野朔実のbotをフォローした。
彼女のマンガのセリフはすべてカギカッコにくくられているような気がした。
詩人はカギカッコを使わない。
おそらく、声帯よりも唇に近い部分、上咽頭のあたりに、カギカッコフィルターが用意してある。口から出てくることばはどこもかしこも、あますところなく叙情にあふれている。
ぼくは今、どちらかというと、一回もカギカッコを使わずとも人をゆらゆら揺らすことができる人、のほうにとても興味がある。
それはおそらく現実の世界にもSNS上にもほとんどいないのだが、まれに、いる。
かなわないなあ、と思う。無言でフォローして、「いいね」をつける。
いいねはごく個人的にはたらくカギカッコだからだ。