かつて、「わからない」「なおらない」「しなない」、通称「3ない」と言われていた医学がある。それは何かというと。
皮膚科学、であった。
あくまでも「昔」の話である。
皮膚の病気は実に多彩。湿疹(しっしん)ひとつとっても、原因が無数にあり、見た目も微妙に違う。治療がうまく行くケースが比較的少なく、なんだかだらだらと治らないままの状態が続く。そして、命には関わらないことが多い……。
いずれも過去の話だ。診断のレベルがどんどんと上がり、診察の仕方、詳しい検査方法、基礎研究との連携などによって、今や皮膚病はかつてないほどに解析され……。
この価値観は、ひっくりかえった。
「わかる」「なおる」「生きる」である。「3る」。語呂が悪いので流行らないが。
ではこれをひっくり返したのは何か? 医学の進歩、というとちょっとざっくりしすぎている。
ぼく個人の意見ではあるが、皮膚科の診療がこれほど劇的に進歩できた(わからないからわかるへ変化したというのは、とんでもない進歩である)のは、皮膚病が「直接みえる疾患である」ということが大きいように思う。
心臓とか肝臓、肺、血液の病気というのは、医者がどんなに手を尽くしても、結局直接みることができない。だから、診断学は、自然と、「類推の学問」となる。いかに間接的に病気の姿を捉えるか、いかに影絵から本態を見破るか、というところに根幹がある。
これに対して、皮膚は「みえる」。
いかに細かくみるか、いかに詳しくみるか、を突き詰めていくことで、どこまでも診断を深めていくことができる、ということだ。
皮膚は、直接検体を採取することが比較的容易である(審美的な問題はあるのだが)。
病気を遺伝子解析することも比較的たやすい。採ってすぐ解析用の溶液や装置に入れることができるからだ。
ここまでの話、だいぶ簡単に書いている。実際にはそこまで単純な話ではない。しかし、一面の真実は語れているはずだ。
極論する。臨床医学というのは、「できるものならば、皮膚科のように、直接みてみたい」。
直接みたい。近距離でみたい。ありとあらゆる方法を使ってみてみたい。
それができない科だからこそ、さまざまな画像診断が発展するわけで……。
できる科であれば、病気に最接近することはとても役に立つし、ぜひやりたいと思うものなのだ。
極論ついでに言う。
今の時代、胃カメラや大腸カメラを使う消化管医療というのは、少しずつ皮膚科に近づいている。
カメラを使って直接病気に迫っていけるのだから。
実際、今、胃の病気の一部は「まだわからないが、なおる」病気へと変貌を遂げつつある。特に、ピロリ菌に感染していない胃においては、「死ぬ胃癌」よりも「死ぬ前に治せる胃癌」が増えている(個人の感想ではなく、学術的業績の数々がそれを示唆している)。
もちろん、まだまだ、「死ぬ胃癌」の数は極めて多い。そこは勘違いしてはいけない。けれど、「死ぬ前にどうにかできる病気」が胃にもあるのだ、ということが、近年わかってきた。
まるで、皮膚病のようだ。
そして、胃がまるで皮膚のように感じられるのは、胃カメラの発達によるところが大きいと思う。
一方で。
皮膚にも「死ぬ病気」がある。悪性黒色腫などのがんだ。
皮膚がんというのは比較的まれである。湿疹などの、「しなない」病気のほうが極めて大きい。
だからこそ、ときに出現する「死ぬかもしれない病気」をきちんと見つけ出すことが極めて重要である。
胃も、だんだんと、そういう世界になっていくような気がしている。死ぬ病気が珍しいからよかったね、で終わらせてはいけない。死なない病気の中から、死ぬかもしれない病気をピックアップするというのは、かなり高次の診断能力を必要とするのだから、きっちり気を引き締めてかからなければいけないのだ。
「病気に最接近できる領域」において、病気を”きちんと”みるのは医者の使命である。
なお、”最後まで”みるのは、実は病理医の仕事である。
三度目の極論を言う。病理診断学というのは、皮膚科からスタートする学問である。かの有名なAckermanの教科書も、日本語の名著「外科病理学」も、冒頭には皮膚疾患が置かれている。
最接近して、最後までみるのが病理だから。
患者にぐっと近づいたとき、最初に見えるのは皮膚だろう? だから、病理のスタートは、皮膚なのだ。
そして、医学が進歩して、皮膚だけではない、さまざまな臓器に接近できるようになれば、病理医の仕事もまた、深く鋭く進化せざるをえない。
蛇足:
今日の話を一部分だけ切り取られるととても困る。
病気というのは「ひとことで片付けられない」世界だからだ。
深くみる、というのは、「ひとことで片付けられない世界をのぞく」ことでもある。そこのところ、自戒を込めておく。