体の中からとってきた臓器、そのまま置いとくと、腐る。当たり前だが腐る。
腐るというのはどういうことか? 細菌や真菌(カビ)がはえて、微生物たちの力によりさまざまに分解されてしまうということだ。
だからただちに防腐処理をしないといけない。そうしないと、「わざわざ手術で採るほどの苦労をして、体外に取り出した病気を、きちんと検索できなくなる」。
防腐処理ということで防腐剤をぶっかけるればよいか?
実は取り出した臓器には、腐るリスク以外にもいろいろと「不都合」があるのだ。
たとえば、体から採ったばかりの臓器には血液がけっこう多く含まれている。これをそのままにしておくと、血液の中に含まれている赤血球が「溶血」(ぶちこわれ)して、周りに鉄分などが漏れ出す。
(よく、血が足りないときは鉄分とれっていうでしょう。あの鉄ってのは、赤血球の中に入っています。かなりべんりに使われているがその話はいずれまた)
あと、血液だけではなくて、消化液なども含まれている。胃なら胃液。膵臓なら膵液。これらは容易に組織を破壊する。
そして、なにより、「体から取り出した細胞は、我先に死んでいく」のである。これがやっかいだ。取り出したまましばらく放っておくと、血流の循環がないわけだから、粘膜のもろい部分の細胞などはあっというまにぼろぼろと死んでいく。
手術で採ってくるような病気の多くは、人体と同じように「細胞でできている」。これが、酸欠と栄養不足によってバタバタ死んでしまうと、「手術で採るほどの苦労をして、体内に取り出してきた病気を、十分に調べる前に」……このくだりさっきもやったな。
とにかく、人間というのはよくばりなのだ。病気を採って一件落着、では終わらせない。犯人を逮捕したらすぐ刑務所にぶちこんでしまうのではなく、洗いざらい「自白させる」。つまりは顕微鏡でめっちゃ見る。そこまでやって病気を丸裸にするのが現代医療である。
しかし、腐ったり、酸欠で細胞が死んだり、消化液で溶かされたりしては困るのである。警察が犯人を取り調べる前に、組のモノによって容疑者が暗殺されてはいけないのだ。
だからホルマリンを使う!
現代で使われているのは10%中性緩衝ホルマリンというものが主だが、これがかなり高機能で、すばらしいことになっている。こいつにつけ込むと、
・腐らない!
・細胞が「固定」されて時間が止まったかのように形状が保たれる!
・血が抜ける!
・消化液の効果も消える!
まーすばらしい、いいことばかりなのだ!
ところがホルマリンには弱点もある。まず、漬けすぎているとよくない。「過固定」と呼ばれる状態になってしまう。すると、顕微鏡でみるときの様々な「色素」がうまく入らなくなる。免疫染色という手法も厳しくなる。
何より、あまり長くホルマリンに付けていると、病気の遺伝子検査などがうまくできなくなる。現代医療ではこれはちとまずい。
そこで、臓器を取り外したら、ただちにホルマリンに漬け……
「24時間後~72時間後のあいだに、取り出す」ということになっているのである。取り出して何をするかというと、病理医が顕微鏡で見たり、遺伝子検索をするための様々な別処理にかけなければいけない……。
なんだけっこう時間に余裕があるじゃん、とか言っていてはいけないのだ。具体的にこの「24時間~72時間しばり」のつらさをお話ししよう。
木曜日の夜に手術が終わったとする。そうだな、夜7時に臓器が病理検査室に運ばれてきたとします。
で、そこでホルマリンに漬けるね。
24時間はホルマリンに漬けていないと、細胞が十分に「固定」されない。じゃあ24時間後っていつだ?
金曜日の夜7時ですね。もうスタッフみんな帰ってるよ。明日にしようよ。
翌日、土曜日の7時には、48時間が経過しています。スタッフはみんなお休みですね。
翌々日、日曜日の7時に、72時間に達します。あら、まだスタッフいないよ。
月曜日の朝、出勤して、さあ臓器をホルマリンからとりだすと……なんともう84時間以上が経過しているのだ。これでは臓器の中にある遺伝子の部品、特にRNAは壊れ始めているとされる。
そう、組織を扱うときに「時間の縛り」があって、それが患者の検査にダイレクトに影響するとき、ぼくらは、手術が終わった時間と休日から逆算して、「どこかで休日出勤」しなければいけなくなる。
「病理医は患者の都合に合わせなくていいからフレックス勤務でいいよね」みたいなことを言えていたのは昔の話だ。
今は化学物質の特性を考え、遺伝子検査などの都合を考えなければいけない。患者は説得もできるがRNAを説得するわけにはいかない。「できれば月曜日までがんばってくれ」なんて言っても聞いてはくれないのである。