「 自分のすべて」を使わずに世界と向き合う。そういうことばかりである。
「ゼルダの伝説 ブレスオブザワイルド」の話題を検索するとき、ぼくは自分が札幌に生まれて育ったこととか、剣道をやっていたこととか、両親や祖母、弟とどのような時間を過ごしていたかとか、学校でどういう勉強が好きだったかとか、どういう女の子のことをかわいいと思っていたかとか、受験勉強でどれくらい問題集を解いたかとか、大学時代にどういうバイトをしたかとか、そのころはじめたホームページで何を書いていたかとか、どういう音楽を聴きどういう本を読んでいたかとか、大学院ではどういう研究をしたかとか、病理専門医の修行をどこでしたかとか、そういった情報をまず使わずに「ゼルダの世界」と向き合っている。
そういうことばかりである。
違う人、違うコンテンツに向き合おうとするとき、自分の中から出してくる「コンセントに挿すプラグ」みたいなものが毎回異なっている。ぼくの心にはさまざまなプラグがぶら下がっていて、何と向き合うときにどのプラグを選ぶかはほとんど反射的に決定されている。ためしに違うプラグを挿そうとしてもうまくいかない、とりあえず十分な電力は供給されてこない。
平野啓一郎氏のいう「分人」という考え方でもいいのだが、どうも自分の中に複数の人間がいるという考え方よりも、「常に自分の一部分でしか接していないこと」、「常に完璧な自分ではなく自分以下のパーツだけで接すること」という感覚のほうがぼくの中ではしっくりくる。ひとつひとつが「人」と呼べるほど完璧なパーツではない。常に「以下」であるということ、これは哲学によって教えられた、なるほどそうだなと腑に落ちている。
そのような「以下」の部分で外界と接続しては切断する。接続しては切断する。違うモノにプラグを挿そうと思えば、コードの長さには限界があるから、どこかは引っこ抜かなければいけない。どこかにつながろうと思えばどこかは切らなければいけない。
だからぼくはAntaaという集まりのインタビューでこのように問われた時に、このように答えたのだ。
「Q. あなたにとって、『つながり』とはなんですか?」
「A. ぼくにとってのつながりは、接続と切断をくり返すことです」
そしたら信用している編集者にツイッターで笑われた。「今度から私もそう答えよう」。
だろ、これはなんというか、「つながればいい」と思っている人を軽く殴る印象をもった言葉だけれど、その実、「それこそがつながることの本質だろう」と本気でぼくが思っている内容そのものでもある。