8年くらい前から断続的に、「ツイキャス」というアプリを使って、いくつからんぼうな企画をやってきた。
NHKの「総合診療医ドクターG」を放送しているウラで勝手に副音声よろしく実況をつけてみたり、ハリソン内科学を音読して視聴者と盛り上がったり。
https://twitcasting.tv/dr_yandel/show/ (ツイキャス・血祭りスタジオ)
その後、ツイキャスを使う頻度はだんだん減ったが、かわりに、配信100回を越えたPodcast番組「いんよう!」や、YouTubeでの「SNS医療のカタチONLINE」につながっている。
https://inntoyoh.blogspot.com/ (Podcast・いんよう!)
https://www.youtube.com/channel/UCRiSbeoKbik6xtPC86YaqiA (SNS略)
なんだかんだで細々とやっている。
さて、最近ちょっと思うところがあり、ぼくの昔のツイキャスを聞き返してみた。
これがまた、思った以上に、配信のノイズや音量の調節の悪さが際立つ。対談企画だとツイキャスに加えてスカイプなどを利用するのだが、バックグラウンドに流れるシーシー雑音が邪魔だし、なんの遅延かわからないが双方の会話が少しずつずれていく。
当時から気づいてはいたが、今になって聞き直すとなおひどい。おそらく、「素人がやる放送なんてこんなもんだよ」って感じで、みなさんにはずいぶんとお目こぼしいただいていたのだろう。まったく申し訳なかった。よくこんな音質でみんな聞いてくれていたなあ。
もちろん、聞けなくはない。けれども、ノイズ混じりの音声や、ボリュームが微妙にマッチしていない放送というのは、思ったよりストレスフルである。
さて、あくまでぼくの場合。
古いビデオとか昔の写真といった、「映像・画質」が悪いからといって、実はそんなに気にならない。もっと見えればいいなとか、もっとはっきり見たいなと思うことこそあれ、「不快だ」とまでは感じない。
しかし音が悪いことは端的に言って「耳障り」だ。
映像の画質が悪いからと言って「目障り」とは(そこまで)思わないのに。
この差はなんだろう? と思った。
「目障り」ということばのイメージを掘っていく。目線にやたらと入り込んでくる大きな物体だとか、自分の目線を邪魔するような、ウゴメクデカブツといったものが思い浮かぶ。
対して「耳障り」のほうは? 暴走族のラウドな走行音? まあそういうのもあるけれど、逆に蚊の羽音だとか、誰かがびんぼうゆすりする音のように、小さいほうの音でも「カンに障る」ことはある。
今日は「病理の話」ではないのであまりガチガチの考察をするつもりはないのだけれど、あるいはこれらは動物の危機察知本能に基づくものかもしれないなと思う。
「視界不良の状況でわずかに見えるもの」と、「静謐な状況でわずかに聞こえてくる音」では、たぶん後者のほうがより危険が切迫しているのである。
野生動物を狩りにいくシーンを思い出して欲しい。なるべく身を隠して近づくだろう。でも、足下でカサリとでも音がしたらただちに獲物に逃げられてしまう。
たぶん動物は、「わずかに見える映像ノイズ」と、「わずかに聞こえる音声ノイズ」では、後者のほうが圧倒的にヤバい環境で生き延びてきたのではないか。だから、これだけ平和になった世の中で暮らしていても、YouTubeの音声がちょっと乱れただけで不快に感じてしまうのではないか。
あるいは……映像はきれいなのに、音声だけが乱れている状況というのが、ぼくらは一番苦手なのかも知れないな。
なんてことをふわふわと考えている。