2020年9月30日水曜日

そういえばカウボーイビバップもみてたわ

アニメをそんなにいっぱい見ていないので、アニメをきちんと履修している人からしばしばアニメをおすすめしてもらう。


お前はまず攻殻機動隊のイノセンスを見ろと言われている。あと、蟲師を見るべきだと言われた。小林さんちのメイドラゴンを見ろと言われた。四畳半神話体系を見ろと言われた。ほかにもいろいろと言われた。


なるほどなーと思うし、きちんと見たら「うれしいに決まってる」ことまでわかっている。


とりあえず空き時間をつぎはぎしているうちにいつかたどり着くだろうと思っている。




これまで見てきたアニメってなんだろうと思った。先日ポッドキャスト「いんよう!」の中では、自分が子どものころに見ていたアニメを中心に、ドラえもんガンダムドラゴンボールワタルエヴァンゲリオンパトレイバーくらいまでしか思い出せなかった。


ぼくのことを雑にオタクだと思っている知人が何人かいる。立ち居振る舞い職業的にはこいつオタクなはずだと決めつけている人たちだ。そういう人たちはインターネットとオタクとがほぼ同じ意味だと思っていたりする。でもぼくは気質がオタクっぽく見えるだけで、実績はちっともオタクじゃない。


そもそもぼくは「これは見るべき」と人がすすめたものはなるべく見ることにしている。「言の葉の庭」にしても、「けものフレンズ」にしても、「映像研には手を出すな!」にしても、短く強く「見るべき」と言われて、たまたまその日の夜に時間があったのですかさず見たら、しっかりとおもしろかった。人のおすすめに乗るといいことがある。


これ、どちらかというとオタク気質ではなくて、「スナオな気質」によるものである。


あえて対立概念として書いてしまったのだけれどここをしっかり説明する。ぼくから見た印象に過ぎないが、生粋のオタクはむしろ他人の意見に対してスナオではないほうが多い気がする。それは悪い意味ではぜんぜんなくて、「外部から入ってきた情報を、自分の中にあるものときちんとすりあわせて、整合性を確認してからでないと是非を判断しない」という慎重な姿勢だ。自分の中でコンテンツをコンテキストにまで練り上げるタイプの人は、他人から急に何かをおすすめされたからと言って、自分の身柄をそれに簡単にあずけたりしない。


でも、ぼくはわりとホイホイしらないおじさんの言う事についていく。防犯意識の芽生えていない子どものような精神だ。これはオタク気質とはおそらく競合する性格だろう。




ところで、世間にある情報の大半は、「本質的には既存の商品と何一つ変わらないものを、情報を付加することで新商品として売るため、すなわち元からあったものを無理矢理新しく見せかけるための道具」であると思う。


無防備にテレビやネットを見たとき、そこに映っているものは、「新しくもないのに新しいという顔をして何かを売っている姿」ばかりであると感じる。たとえばスマホ、毎シーズンごとに新商品が出るが、生産側の都合はともかく、ネットの表層から得られる情報としては前の商品の違いが一切わからない。そこにはただ「新しい」という言葉だけが踊っているように見える。もちろん掘り進んでいけば先進性があるのだろうが、そもそもネットワーク上の情報はそこまでたどりついていない、ただひたすら「新しくなったよ」と連呼するばかりだ、99%が古いのに、最後にラベルする情報の部分が新しいというだけで、ぼくらは「おっ、新製品か」と思えるように退化している。


細かな差異を拡張して「うわーここが新しい」と言うモードにみんなが慣れてしまっている。すると、自然と、「ちょっとおすすめされたくらいで全部吸収していたらこちらの身が持たない」ということに気づく。


つまり世に「おすすめ情報」が氾濫して、新しくないものを新しいとダマして売ろうとしている姿勢が氾濫するにつけ、我々はその情報のほとんどを廃棄して、自分なりに「これは本当に新しい」と思うものを選んで摂取するモードに入る。


だからもはやほとんどの人は「おすすめされたくらいでは動かない」。その意味では一億総オタク時代がすぐそこまで、いや、すでにその中にいるのかもしれないとすら思う。



ただぼくはその意味では脳のアップデートが遅れたのだろう。


「いいよ」と言われればそれを摂取する気持ちがまだけっこう残っている。


そして摂取して実際に、「すばらしいなあ」と、おどろきとよろこびを持ってそれに満足するのだ。これはオタク気質ではないと思う。


ぼくは、けっこうな量のコンテンツを、「誰かがうれしそうにおすすめしている姿を見るだけでうれしくなって、商品本来の価値が200%くらいにブーストされた状態」になってから「履修」している。最近は特にそうだ。「誰かの表情」を新しく付加することで価値を増やさなければ、ぼくはもはやコンテンツ自体をまっすぐ楽しむことができなくなるのかもしれない。それは、あるいは、「もう新しいものなんてない」と、心のどこかで強い絶望を抱えているからなのかもしれない。




と、思い付くままに書いてみたのだけれど、いい作品を見て感動しているときの自分の心は、「新しいかどうか」についてはほとんど触れていない。これははっきりしている。「新しい」ということはぼくの中で、特に言語化する以前の部分ではおそらく価値ではないのだ。それなのに、「もう新しいものなんてない」という文字の羅列を見ていると、ひどく悲しい気分になる。もしかするとぼくは、新しいかどうかに関わらずコンテンツを楽しむ人間であるのに、その一方で、「いつか新しいものを見てみたい」と熱望しているのだろうか?