2020年10月1日木曜日

病理の話(459) そこでもうひと粘りする

雑然と書く。

○○歳、ながびく下痢。診断がつかなくて、大腸カメラから粘膜をつまむ。病理医~たのむよ~なにか見つけてくれよ~。主治医も祈るようだ。患者ほどではないかもしれないが。あるいは、患者よりも、か?

そして依頼書に丁寧に書く。A病? B病? C症候群? D病? E感染症? どれもしっくりこない! そう書く。


すると、病理医はまず顕微鏡を見る。とりたててそこに何も見えていないように思ったとしても、主治医の思いが届いていれば、そこでもうひと粘りする。

具体的には、染色方法を変えてみる。ひとつの染め方では見えてこない特殊な病態だったら? 珍しい染色を使わないと普通の病理医ではまず気づかないような病気が隠れていたら? そうやって、掘り進む。




これが難しい!




「もうひと粘り」というのがとにかく難しいのだ。プロの医師なんだからいつも粘ればいいじゃないか、というツッコミはむなしい。なぜなら、医師は基本的に必ず粘っているからだ。そして、わりと頻繁に、

「これは検査で見つかる病気ではない」

ということを経験する立場にもいる。けっこうあるんだ。検査で何でもわかるわけではない。この検査は陰性、それでもほかにやることがまだある、というケースがあるんだ。

だからつい、検査で一通り粘って何も見つからなければ、診断書に


「何もなし。」


と書きたくなる(実際にそうは書かないがそういうかんじのことを書く)。





けれども、主治医が、そして患者の思いが伝わってくるとき。

そこでもうひと粘りする! 技術もいるし経験もいる、膨大な知識もいる、そしてけっこう運がいる。

で、粘った末に、あっという叫び声と共に、思いもよらない病気のひとかけら、氷山の一角が指先にひっかかってくることがある。




どれくらいの頻度であるかというと、そうだな、月に……年に……1度くらい。








30年はたらけば30人救える。そういうレベルの「もうひと粘り」。

言うほど簡単ではないよ。ぼくだって毎日折れそうになっている。でもやるんだ、それが仕事だから。