2020年10月27日火曜日

病理の話(468) 未来の病理診断が今ここに

「Scientific reports」という学術雑誌はなかなか特殊な、いかにも今風の雑誌である。


論文掲載には「査読」といって、複数の人間の審査を経なければいけない。ただし、掲載が決まるまでの時間は早いほうだと思う。すべての論文が「オープンアクセス」といって、誰でもウェブで無料で閲覧できる。


ぼくの勝手なイメージだが、「けっこうよさげな結果を、急いで世に出したい」ときに重宝されているような印象がある。


さてそこにこういう論文が出た。


https://www.nature.com/articles/s41598-020-71737-w


"3D histopathology of human tumours by fast clearing and ultramicroscopy"


”3D histopathology of human tumours...

(訳:3次元組織学 オブ 人間の腫瘍……)


...by fast clearing and ultramicroscopy."

(訳:……迅速組織透明化技術と、ウルトラ顕微鏡によって。)




すごそうな言葉ばかりが並んでいて、そのじつ何が起こっているのかよくわからないと思われるので、ちゃんと解説する。


ふつう、病理医が細胞を評価するときには顕微鏡を使うわけだが、この顕微鏡、虫メガネと違って、そのものにただ近寄っていけば細胞が見えるというわけではない。拡大を上げ続けていくと2つの障害にぶつかる。


1.「拡大をあげればあげるほど、視野が暗くなる。」


小さな面積を拡大していくので、周囲をいくら強く照らしても、構造がよくみえなくなっていくのだ。このことは非常に大きい。


2.「拡大をあげても、細胞の外側ばかり見えてしまい、中身が見えない。」


きわめつけはこれ。細胞というのはゆで卵みたいなものだ。周囲にカラがあり(細胞膜という)、なかに白身と黄身があって、黄身の部分を「核」と呼ぶ。こいつを外からにじりよって観察したところで、見えてくるのはカラばかり。内部を見るのはなかなか大変だということが想像つくだろう。



そこで、これらの問題を一気に解決する手段として、人間はほんとうにかしこいことを考え付いた。


輪切りにするのだ!


タマゴを輪切りにする!


しかも、そのスライスをペラッペラに薄くして、下から強い光をあてる!


こうすると「1」と「2」が一気に解決できる。下から強い光を当てることについてはまあ上から当てても実は一緒やんけと思わなくもないのだが、「スライスする」ことで断面にすれば、カラの内部の構造だって一目瞭然だろう。


そこで「薄切」という技術を使って、組織をペラッペラにする。カンナのおばけみたいなものを使う。


ところがここでひとつ問題が生じた。ペラッペラの組織というのはほとんど透明だったのですよ。だいこんのかつらむきすると向こうが透けて見えるでしょう?


下から光をあてても、薄すぎてなんだかよくわからん、という事態がおとずれた。あちらを立てればこちらが立たず。


で、人間、さらに工夫して、いろいろと細胞を染める技術をためして、最終的に、のび太さんのエッチイー染色というのを考え付いた。正確にはHematoxylin and Eosin (HE)染色という。のび太さんと覚えていい。しずかちゃんだけど。


これを使うと、タマゴの黄身の部分をきっちり染めることができて、なんならカラの部分も繊細に染めることができる。ペラッペラのスライスであってもだ!


というわけで、「薄くペラペラにする」+「色を付ける」+「下から光をあてる」の三位一体攻撃で、わたしたちは普段、細胞をまるはだかにしているのである。エッチイー。





ところが今回のScientific reportsの記事……というか実はそのずいぶん前から、そうだな、10年以上前から、人間達はまったく別の技術開発にとりくんでいたのだ。そこにはあるモンダイ意識があった。いわく……


「薄く切ったら立体構造が見えないじゃん。」


や、ま、そうなんだけどさ! でもそれはもうしかたなくない?


みんながそう思ってたんだけど、いろいろな業界のひとたちが、「組織をまっぷたつにせずに、そのまま透明にして、そこに色をつけて、なんかすごい顕微鏡で見るワザってねぇの?」という開発をはじめたのである。


いやいやそれってすごいぜ。だってまず「組織を切らずに透明にする」ってことだろう。そうしないと光が奥まで届かない。タマゴの中が見えない。


でもこの技術、まじでずーっと開発され続けていた。ぼくが知る限りでも10年弱前にはすでに日本病理学会で発表があったと思う。


そしてこのたび、「めちゃくちゃかんたんに、しかもすばやく組織を透明にできる試薬の組合わせ」がわかったというのだ。それが上記の論文である。


おまけにその透明になったスケスケ組織に、今までのようなHE染色であるとか、各種の免疫染色をそのままやることができるという。さすがにその発想はなかった。


するとどうなるか? 特殊な顕微鏡(ここにも血と汗と涙の歴史がある)をもちいることで、組織をペラッペラのかつらむきにせずとも……まあ実際には完全に切らないというわけにもいかなくて、ブタの角煮の厚さくらいにはしたほうがいいんだけど……組織の構造をみることができるようになった、というのだ!


ぎょえーすごい。3次元構造がみえる! という論文である。この技術をまず発表しておかないと特許とられちゃうだろうから、論文作成者は発表を急いだんだろうな。Scientific reportsに投稿するのもまあわかる。




ただまあ実際に論文を見てみると、これ、「核の中身」まではなかなかみえないね。やっぱり精度はさほどではない。けど、実際の人間の「がん」が、どのように3次元的に進展しているのかをきちんと表現することができている。


これ、たぶんAIと組み合わせると、人間の診断能力を超えると思うよ。それくらい情報が多い。


よーしぼくもこれからは3次元病理医だ。人間の欲望ってのは果てしないな。病理医のエッチイーである。