2020年10月14日水曜日

積み動画に罪はない

積み本が苦手で、買い漁った本はなるべく早く読みたいと気が競る。


でも本って飛ばし読みするとまったく頭に入らない。一割だけ役に立つ読み方、みたいなのって、ありそうに思うけど、時間に耐えられない。「最初の数章だけ読んだよ」みたいな本は、一ヶ月もしないうちにほとんど忘れてしまうことのほうが多い気がする。だから、あせらず、じっくりと読んでいくしかない。


そういうとき、積み本の表紙や背表紙のことを、なんとなく覚えてしまう。ぼくは未読の本を決まった場所に積む(本棚には挿さない)んだけど、本棚にあるときよりも積んでいるときのほうが、表紙のデザインやフォントなどを何度も見るためか、印象に残る。


順番を後回しにした本の表紙のことをずっと覚えている、ということがよくある。厚めの哲学書とか、網羅系の医学書に多い。


その意味では「積ん読も読書」なのだな、と思う。たしかに本というのは、買ってしまえば読まずとも、その人の心の中に居場所を得るものだ。「買うまでが読書」とはよく言ったものである。




しかし同じようにはいかないものがあって、それは何かというと、動画だ。


YouTubeをはじめとする動画サービス。


見ようと思った動画をチェックして、チャンネル登録をしても、未視聴のままでいるうちは、サムネや動画のタイトルが頭に残るということはない。


「積み動画」はうずもれていくだけなのである。……あくまでぼくの場合、だが。


動画は見たいものをすぐに見ないとすぐに過去になる。テレビ番組の録画もしなくなった。


積み本は急いで消化しようと思いつつ、その実、読まなくてもどこか安心している部分があるのだけれど、動画はそうはいかないのである。


積み動画というのはできないんだなと思う。




もちろん世の中には積み動画をするタイプの人もいると思うのだが、それはたとえば映画のブルーレイであったりサブスクであったりするのだと思うけれども、人気のYouTuberの動画をまとめて見ようと思う人というのはそれよりはるかに少ないような気がする。


だってYouTuberというのは常に新作を撮っているからね。過去を見ていない人でもすぐに見始められるような動画を、毎週、毎日のように。



未読の本から得ているナニモノカを、未視聴の動画から得ることは難しい。


そしてぼくは今日も、「どうせ見られないだろうから」と言ってYouTubeのチャンネル登録を一つ解除し、本を一冊買うことになる。