2020年10月12日月曜日

南極の氷を使ってもよい

ぼくが「同じ小説を何度も読むことはほとんどありません」という話をすると、もったいないなーという顔をされるのだけれど、その人に、たとえば同じマンガを何度も読むか、同じ音楽を何度も聞くか、同じ運動を何年やっているのか、とたずねてみれば、ぐっと唸ってそれっきり黙ってしまうのである。

だから、ぼくは「同じ小説を読み返さないこと」を、べつに気にしなくてよい。

あるいはぼくも、そのうち同じ小説を何度か読む日だって来るかもしれない。これはこだわりというよりめぐりあわせ、偶然の積算物であって、必然性をまとわない話題なのである。



とかく人は、自分の生き方を肯定するために人の生き方のエラーを見つけることに専念しがちである。「なんでそんなに忙しく過ごしているの、体壊しちゃうよ」みたいな言葉は、多くの場合は純粋に心配だけから出た言葉ではないと思う。かなりの高確率で、「もっとうまくやれよ、この俺のように」という自己アピールメッセージをスパイス程度に含んでいる。「私も昔はそうだったんだけどね、コントロールを覚えたら人生楽になったよ」。

知るか、何の武勇伝だよ。



このようなフレーズを純粋に心配としてぶつけることができるのは、「家族」くらいだ。カギカッコつきの「家族」。余計なことを何度言っても「家族だから」という理由でそれをポジティブに変換できる装置。もちろんここで家族の定義なんてそれぞれが勝手に決めればいいのであって戸籍にこだわる必要すらないのだが、ぼくはほとんどの他人とあまり距離を詰めたくない、つまりは家族を拡張する気がないし、ぼくのことを知りもしない人が「なんでそんなに忙しいの」というと「それは暇なときのぼくに興味がないお前の一方的な判断だろう、勝手に見るな、勝手に評価するな」と急に具合が悪くなる。



さて、

ぼくはもう40をこえた大人なので、具合が悪くなるからといってそれをそのまま言葉にすることはしないし、なんならそのようなできごとをすぐにブログに書くこともない。たまにぼくはある「やり方」をする、それは、「昔すごくいやだったことを、すぐに書かずに待って、待って、とにかく待って、忘れそうになるぎりぎりまで粘ってから文章にする」ということだ。「出会いたてホヤホヤのいやなこと」をすぐに文章にしてしまうと、関係者がそれを読んで微妙な気分になったりする。今日のブログについてもそうで、あくまで最近だれからも「体壊さないようにね」と言われた覚えがないからこそ書ける内容だ。もしTwitterやFacebookなどで安易に「体お壊さないでくださいね」と話しかけられた日だったらぼくはこの記事自体をお蔵入りさせてしまうだろう。


他人との距離を中途半端に詰めてくるタイプの人がこのブログを読んだら、「私のひとことのせいでこんな記事を書かせてしまった」と気に病んでしまうかもしれない。それは申し訳ない、ぼくと全く関係がない人間をぼくの言葉で傷つけるのはだめだと思う。自意識過剰という言葉があるけれど、過剰な自意識を喚起する触媒に自分がなってしまうのはなんか配慮の底が浅い気がする。




いちおうここまでが前段でここからが今日の本論なのだけれども、最近のぼくは「最近思ったこと」をすぐ反射させて文字にするのを控え気味にしている、少なくともブログでは活きの良い話題をとりあげないほうがいいのだろうなという気持ちが日に日に高まっている。外部から飛び込んでくる情報を自分の表面でだけ反射するリツイートスタイル、これはツイッター上などでは特殊な滋味があって悪くはないのだが、どうも今のぼくは内部に屈折して飛び込んできた粒子的情報をそのまま体の内部でさんざん乱反射させて減衰させて、しばらく時間を置いてから最終的にそのチェレンコフ光のログをとって、入ってきた粒子の質量を分析する、カミオカンデ型の文章を書いたほうが、自分のためにも他人のためにもいいのではないか、と考えている。

対極的に一番だめだな、自分に合わないなと思うのは引用リツイートだ。どんな話題を出しても「それ俺も知ってるよ」「そこ俺も行ったことあるよ」「それ俺も昔食ったよ」「それ俺も考えてたよ」と自分の話題に転換するような雑談、そういったものがいやだったからぼくは現実の世界でだんだん飲み会に出なくなった。人との距離感がぼくと似ている人は基本的に引用リツイートはしない。ぼくは人とあまり似ていないのでこのことを言ってもあまり共感はされないし、少なくとも共感の声が引用リツイートで出回っていくことはない。