職場にはいてきたパンツの毛玉がすごい。最近寒くなってきたので、ワタが入ってあったかいやつを引っ張り出してきたのだけれど、あらためてじっくり見てみると毛玉がすごい。人前に着ていけるような服では無かった。……と、以前なら赤面しただろう。
今は人に会う機会が減っているからあまり問題ない。機能があれば、見た目はわりとなんとかなる。
「ソーシャルディスタンシングによって、モノを大事にすることができる。」
すばらしい。
ちょっと今写真を撮ってみたんだけどグロかったので載せない。なぜだろう。肉眼だとそこまでひどい感じはしないのだが、スマホで撮ると光量の関係か、解像度の関係か、毛玉の凹凸がエモ散らかして、綿の荒野に一揆集が決起したみたいに見えてしまう。お見せできない。
「スマホカメラによって、毛玉はグロくなる。」
また所見を得た。
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こういったことを少しずつ書きためていって行を埋めることでブログになる。そういう書き方があることは事実だ。ぼくもこれまでに何度かやっている。ただまあ、ぼくのレベルでやると、スッカスカになる。
「一人井戸端会議」において、会話のお題をこうと定める理由はいらないし意味もない(こうやっていうとマツコデラックスを目指すタイプの人が「意味はある」などとつっこんでくるかもしれないが)。
ただ、その小さくて無意味な話題はある種の静電気みたいなものを持っていることがあって、そこにポンと置いてしばらく眺めていると、周りのホコリがよってきてピトピトとくっつく。すると少し話題の質量が増える。
そうやって黙って置いておくうちに、いつのまにか話題の周囲に最初のタネよりはるかに大きな別の話題がくっついていることがあって、あっ、なんでこんな話題を思い付いたんだろう、なんて思って、後から出てきた話題のほうを手に取って眺めていると、とんでもなく長い文章になることがある。そういうことがある。
このことを「氷山の一角」という表現を用いて書いてもよかったのだが、なぜか今日の場合は、一つのコアとなる無意味ななにかを置いて、そこに静電気でもっとでかいものがひっぱり寄せられる、みたいなニュアンスになった。たぶんぼくはそういうことを普段言語化せずに考えているのだろうと思う。
で、その、ぼくが言うのもあれなんだけど、一流の小説家とか一流のエッセイストというのは、最初のコアも大きく育て、寄ってきた別の玉もしっかりと育てて、ふたつが融合したようなテキストを作り上げるのがとても巧みだと思う。逆にぼくは最初のコアにいつまでもいつまでもかかずらう。こだわる。ホコリまみれになった最初の玉を何度でもチラチラとみている。それはもはや他人から見ると毛玉でしかない。ぼくの布地から湧いて出た汚い毛玉。