ムスカがシータに「流行りの服はおきらいですか」と問いかけるとき、あーなるほど、ムスカくんもこれまでいろいろな人間と付き合ってきたなかで、流行に追われて常に新しいデザインばかり買い求める人にも出会ったし、あるいはその逆に、「流行っている服なんてつまらないでしょう」とばかりに逆方向にすすんでいく人にも出会っていて、きっといろいろな人間に振り回されてきたんだろうなあ、そうじゃないとそのセリフ出ないよなあと、なんだかかわいさを感じてしまうのである。
”「流行りの服がおきらいな」人ってへんくつだよね。自分の好みが他人の好みよりも優れているという「好みマウント」が、言葉のはしばしから出てくるタイプに多いじゃん。ぼくそういうの苦手だ。”
ムスカもきっと、場末の居酒屋の小上がりで、焼酎をウーロンで割って飲みながら、サークルの後輩相手にそうやって恋愛観を語ってうっとうしがられた過去があったんじゃないかと思う。ほら思い出話がはじまるぞ。シータは逃げてほしい。でもそんなあぶない逃げ方はしないほうがいい。
脇目をふる。脇に目をやる。自分から見て、脇。
自分が世の中心にいるわけではない。脇目こそが本道に近いかもしれない。というか、脇目をふるとき、左右のどちらかはおそらく世の中心である。自分の向かう前が中心ということはまずない。
そして世に中心はない。分散型ネットワークには中心点がないのだ。地球の表面において「中心」がどこにもないのといっしょだ。3次元を2次元の地図に展開して、真ん中を日本にするから、ぼくらは日本が真ん中だと思い込んでしまうし、太平洋とか日本海を「右」「左」などと呼ぶんだけれど、本来の地球の表面には「中心」なんてない。そこには球を網羅するネットワークがあるだけだ。右も左も前も後ろも区別がつかなくなるのが、分散型ネットワークの特徴である。宇宙空間に出てしばらくすると、「高さ」と「遠さ」の概念が区別できなくなるように。球面上を歩いていると、どっちが「脇」でどっちが「前」なのかわからなくなっていく。そういう迷い方をする。
脇目をどんどんふる。脇目をきちんとふる。ネットワークの中で何度か同じパルスが通っただけのけもの道を「本道」などと呼ぶことをせず、自分が歩いている道を「本道」だと思い込むこともせず。脇目をふりつづけるなかで、なお、自分の首が自然に戻る部分は、「本道」ではないかもしれないが、自分がなんとなく進んでいきたい方向なんだろう。座頭市のように。ベッケンバウアーのように。草食動物のように。脇目をふりつつ、「前」に向かう。