それに対して、ぼくはとにかく一行目を置き、そこに連結させて書くタイプの書き方をする。
たとえばこのブログは完全にそうだ。具体的に言うと、今日の記事もそうだ。頭の中に何も無い状態から、先ほどたまたま「じりじりと溜めている」という文章がポンと出てきて、同時に、言語になっていないモヤモヤとしたものの手触りが浮かんだ。こういうことが一日の中に何度かある。で、そのとき偶然PCの前にいれば、ああこれはブログでいけるやつだな、とわかるので、浮かんだ10文字程度の謎フレーズ+モヤモヤの感触から「連想」される文字を、何も書かれていないブログ記事入力欄にキータッチする。今日はそれがたまたま
「先日先輩といんよう!で話していたこと」
だった。
この書き出しは、さきほどの「じりじりと溜めている」や「モヤモヤ」とは一見つながらないように思われるかもしれないが、ぼくの脳内ではシナプスの連携のふんいきが近い。たぶん似た場所で駆動している。もう人には説明しづらいんだけれど、ぼくの中ではなんとなくわかる。だってぼくの脳だから。
フッと連想されたフレーズに、カギカッコをつけてカッコをつけて、文章的な体裁を整えているうちに、あ、やっぱ書けそうだな、という気持ちになって、次の文章を連想ゲーム的につなげる作業に入る。
「先日先輩と「いんよう!」(ポッドキャスト)で話していたこと なのだけれど、先輩は何か文章を書くときにプロット的なものを」
このあたりで実は思考がスパークしており、モヤモヤが目の前で無数に凝集して、集まった点が全部光って言葉やフレーズになって具現化して、地面にポトポトとおちる。モヤが雲になってあられが降って地面に積もっていくかんじ。霧のつぶひとつひとつがエピソードや単語になったら、思考のピントをそのつぶつぶに順番に合わせていく。手に取れそうなものをゆっくり組み立てていくと文章になるし、モヤモヤ全体をぼんやり見通すと文章のオチもなんとなくわかる。今日の場合、「じりじりと溜めている」というフレーズと「先日先輩と」が先に結晶したあられであり、これらを見て、ああそうか、ぼくは今日、文章の書き方についての話を言語化するのだな、と俯瞰して納得する。この時点で今日の記事を作る部品の一覧はだいたい思い浮かんでいる。ただし、構成はまだ思い浮かばない。
構成が思い浮かぶということは目次が思い浮かぶということだ。商業的な文章を書くときは、とりあえず一行目を書いて、イメージが具現化してあられが降り出したら、その時点でいったん文章を作る手を止めて、目次を作る。
あるいは、この段階で編集者に目次を与えてもらうこともある。というか最近書いた本は基本的にそうやって作っている。ぼくの中でひそかにモヤモヤがあられになった時点で編集者と本の雰囲気を相談し、目次をもらって、あられの中から使えそうなものを拾って組み立てると一冊の本になる。そうやって作った本はもはやぼくの単独作品ではないが、多くの人に読まれることを意識してきたプロの編集者が作った目次は必ずいい本に結実する。
本格的に書く前に目次を作るってのは、「あらかじめ何を書くかを決めてから書き始める」ことと同じじゃないの、と思われるかもしれない。
けれどもぼくの中では微妙に違う。とにかく最初の一行やワンフレーズが唐突に出てこないと、そこからつなげていくという感覚がないと、ぼくは本能的に……というか嗜好性として自分の書いた物に飽きてしまうのだ。
執筆中に思考の衝突がない文章を書きたくない。あらかじめ文章の展開を完全に考えてしまうと、それはもう書かなくてはいいではないか、と思う。だってぼくの中では結論して解決してしまったのだから。プロットが練られすぎたものを書こうと思ったことが何度かある、たとえばそれはSNS医療のカタチのnoteなどで一度やろうと思った。しかし、執筆のモチベーションが急激に低下して途中で消してしまった。「展開が完全には決まっていない文章」じゃないと、楽しく書けない。楽しく書けないものは続かない。もちろんあくまでこれはぼくの場合ではある。世の中にはぼくじゃない人のほうが多い。
むかし、「ミシシッピー殺人事件」というゲームがあって、非常に難易度が高く理不尽なクソゲーだったのだけれど、あのゲームでは登場人物に話を聞いた後、なんかよくわからなかったなーと思ってもう一度尋ねると「さっきはなしましたよ」「もういいました」とにべもなく断られ、重要な情報が二度と手に入らない。なんてひどいゲームなんだ、と笑ってしまうわけだが、実際ぼくの脳というのはしょっちゅう「さっきはなしましたよ」「もういいました」「けつろんはでました」「それはもうすんだはなしです」と言う。ヘンな話だが自分の思考相手に自分の脳がそう語る。先が見えた話をそれ以上深掘りしているひまがあったら、まだ見ぬモヤモヤを言語化するほうに脳のリソースを使いたい。究極的には本能のレベルの話をしており、ここはおそらくなかなか変えようがない。
おそらくぼくの文章というのは、エッセイはおろか教科書や論文を含むあらゆる学術的な文章もすべて、誰よりも自分のモヤモヤを解決するため、自分のために書いているごく私的な日記の延長に過ぎない。だから仮に今の病理医という仕事をやめてしまうと、文章だけでは食っていけないだろう。「誰かがよろこんで読むために」「誰かがくるしんで読むために」「誰かがにやりとしながら読むために」「誰かがぐっと考え込むために」書く文章には、もっと丁寧で重厚な計算と下準備、やさしさ、ふんばる力があったほうがいい。プロットをきちんと汲んで、「こうお膳立てをすればあなたにはこの豊潤な世界がすべて伝わるのではないか」と考える作家の仕事を、ぼくは心から尊敬している。「ああ、そうやってあなたのすばらしい脳内風景をぼくに見せてくれたんですね」と、おかざき真里先生とか恵三朗先生とか、ああマンガ家ってみんなそうなんだよな、きりがない、作家もエッセイストも哲学者もみんなほんとうに字の一画一画にまで魂が籠もっていて感動してしまう、一方のぼくはやはり作家ではない。仕事として文章を書いているかどうかとは関係なく、性根の部分がどうしても、「自分のモヤモヤのためにだけ文章を書いている」。
田中泰延さんの「読みたいことを、書けばいい。」という名著があり、自分もまったくこれをやるべきだなと感心した。しかし、ぼくの場合はさらにもう少しひねくれてしまっている。自分が書きあげたものは、すでに自分の中のモヤモヤが文章になっている、文章化することに成功したプロダクトなので、できあがった瞬間からもはや読みたくない。ぼくは自分の書いたものをあとから見直すのが好きじゃない。執筆中は、「こんなことが書いてあったらぼくなら読みたくなるだろうな」と思って書いている、それは確かなのだ、その意味では「読みたいことを、書けばいい。」の精神をがんばって突き詰めているのだけれど、「心の中にあって読み解きたいけれど読めない状態のものを、読める状態にするために書く」こと自体が目的だったため、書き終わったら別にもう読まなくていいやと思う。だってそのはなしは、「もういいました」。
頭の中で言語化されていないモヤモヤを溜めている。じりじりと溜めている。言語化された順番にぼくに飽きられていく。だからとにかくモヤモヤを溜めておく。ときおりそこからポンと生まれてくるフレーズがあり、そのフレーズに手を出せば芋づる式に、「先日先輩と」みたいな単語がボロボロボロボロ具現化して、それらをつなぎあわせていくと文章になり、書き終わって、飽きて、次のモヤモヤを探す。じりじりと溜めているから、まだ書ける。じりじりと溜めている。能動的に? いや、中動態的に。じりじりと溜めらさっている。一行目を書くとスッと出て行く。便秘に浣腸みたいなもんだ、と、後藤隊長は言った。なんだこれ浣腸か。