2020年10月8日木曜日

欠落の呼吸

踏切、背の高い植物がはえた畑、そして橋。


「あっ」と声が出る風景。いがらしみきおはかつて「なんでみんな橋があるとすぐ『あっ橋だっ』っていうんだよ、バカみたいだぞ」とアライグマくんに言わせたが(ぼくはこのネタが好きでブログにも何度か書いている)、ほかにも線路や踏切、ひまわりや菜の花が群生する丘なども同様の現象を引き起こすことを知った。


あっ沼だ! はちょっとマニアックである。あっ湖畔だ! というのもちょっとやりすぎな感じがする。あっ廃屋だ! もあざとい。


単に風光明媚ならよいというものでもなく、ましてやインスタ映えとも関係がない。



ぼくにとって、この「見たら思わずあっと言ってしまう風景」には、絶妙のさじかげんで「かつての人間の意図」が含まれているように感じられる。踏切や橋というのは、昔だれかが作ったものであり、かつ、最低限のメンテナンスが必要なものでもあり、そして、「今この瞬間の、人の不在」を感じさせるものだ。


ではひまわり畑はどうか?


自然に群生するひまわり畑というのを見たことがない。菜の花畑も整備されたものしか見ない。けれどもおそらく自然の世界には、人がいっさい手を入れていないのに人の心をうつような、息を呑む群生というのがあるのだろうとは思う。


ただしこれらもやはり、なぜだろう、「人がいた痕跡」、そしてめぐりめぐって「人の不在」を感じさせる風景だと思うのだ。遠い記憶とかデジャブとか、そんなチャチな話をしたいわけではないのだけれど。





引き上げられた小舟にまとわりつく古い網。


せみのぬけがら。


奥が見通せる程度の狭い洞窟。


人が不在であることを「思わされてしまう」モチーフのことをと最近よく考える。誰にとってもそうだと言うつもりは無い。ぼくにとって、なぜか、「誰もいないなあ」という言葉とセットになっていて、だからこそ人目もはばからずに「あっ」と言ってしまう風景がある。欠落の圧によって横隔膜がおされている。陰圧によって吸気し、陽圧によって呼気し、声帯に圧をかけて、「あっ」と言う。