2023年2月20日月曜日

病理の話(748) 時間外の病理

珍しい病気の相談を受けている。ほかの病理医が診断に苦慮して、ぼくのところに標本を持ってきた。……と、こうやって書くと、病理医が小脇にプレパラートボックスを抱えてえっちらおっちらぼくのところにやってきたようにも思えるが、正確ではない。

バーチャルスライドと言って、PC上のデータで転送してもらって、それをPCで見て考えるのである。オンラインコンサルテーション、などと呼ぶ。

顕微鏡ではなくPCの画面で顕微鏡像を検討して議論をするスタイル。5年前には考えられなかったやり方が、あっという間に当たり前になってしまった。


只今の時間は19時をすぎたところ。

日中鳴り止まなかった電話の相談も今はほとんどかかってこない。安心してじっくりと、「ほかの病理医が難しいと言ったいわくつきの症例」について考えをめぐらせる。

さすがに難しい。いろいろと教科書を引く。文献を探す。オンラインの勉強会のログをたどって、過去に似たような症例が提示されていなかったかどうかを探す。


すべてボランティアだ。

病理診断のコンサルトに支払いは発生しない。

病理医同士は、基本的に、相談するにあたってお金のやりとりをしない。




なんでそんな、仕事でもないことをやるのか、時間外に……ということを、たまに今どきの若い医者から尋ねられることがある。

それは義務ですか? 働き方としては歪んでいるのでは?

こう尋ねられたら、正直に答える。

義務ではないし、働いているとも言えない。これは自分にとっての研鑽であり、職務を越えた社会貢献でもあって、やりたい人だけがやればいい。

ただし、そこで説明を終えてしまうとフェアではないと思うので、続きも言う。

「そういう機会を捕まえてでも貪欲に勉強をしないと、病理医としての能力が足りなくなる」。

周りから望まれる仕事を多少なりともやろうと思ったら、時間外の勉強をせずにはいられない。


「業務時間外で、無収入で、ボランティアで、病理のことを考える」。いかにもキツそうに聞こえる。したくない人はしなくていい。しかし、それではもう、ぜんぜん足りない。足りないまま給料をもらい続けることもできる。しかしぼくは「足りない病理医だな」と言われたらこの仕事をやっている意味がないように思う。

実際、「勤務時間内だけで勉強を終わらせている病理医」はいるのだけれど、そういう人の中にぼくがすごいなと思うプレゼンをする人は一人もいない。本当に一人たりとも知らない。脳の筋力がないなーと感じる。


病理医は、切ったり縫ったり投薬したりといったあらゆる「手技、処置、処方」をやらない、脳だけで働く仕事である。一方で、当たり前の事だが、病理医以外の臨床医ももちろん脳は使いまくっている。そういう、「日頃から脳を使っている臨床医」がいざというときに頼るのが病理医だ。「手技や処置をしなくていい分、脳はすごいんだろ?」と期待されて頼られるのが病理医である。その期待に答えられる脳でいようと思ったら、いわゆる「9時5時」内に勉強を終わらせることは普通に無理だ。


プロ野球選手はトレーニングを短い時間しかしない、なんていう話と比べられて、「時間外に勉強しなきゃいけない医師の働き方は今後改善すべきだ」みたいなことを言う医学生もまれにいる。しかし解像度が足りないと思う。

たしかにプロ野球選手は、筋肉に負荷をかける時間を短くコンパクトにまとめている傾向がある。しかし、運動を離れている時間も、食事や睡眠、リラックス方法など、すべて「野球にいい影響をもたらすように」調整しているだろう。プロ野球選手を引き合いに出すなら、そこまで真似しないとスジが通らない。

「9時5時」の間には職務として脳を使い、それを過ぎても「仕事を見越して気を抜きすぎず」、アフタータイムにはアフタータイムなりの脳の使い方をする。

それが病理医として臨床医の中で仕事をしようと思った場合の作法ではないかと、ぼくは考える。



ただし、業務時間外にお金ももらわずに、人の為に診断を考えて勉強もする、それで十分よくやっているのだから、昼間と比べて自らを多少甘やかせることは必要ではないかと思う。音楽を聴きながらPCに向き合うとか。たまに病理とまるで関係ない本を読んでみるとか。疲れたなと思ったらどうせ脳もうまく働かないのだから、さっさとあきらめて家に帰るとか。バリエーションをもたせることが続ける秘訣だ。続けないと役に立てない。役に立たないなら病理医でいる意味がない。