2023年2月1日水曜日

矢印をつまむ

これを書いている日は全国的に天気が悪い。強烈な低気圧によって各地が大荒れで、北海道のニュースを見ても列車の運休の情報がひっきりなしに飛び込んで来る。そんな中、すきまを縫うように走っている電車に乗ってでかけた人がいて、不要不急の外出はお控えくださいとあれだけ連呼されていても人間はやはり出かけてしまうものなのだと感じたし、そんな人間たちを短期間とは言えステイホームさせた感染症と、そのおそろしさを増幅させた「噂話」は荒天よりも強いことにあきれるばかりだ。一瞬、人びとを引きこもらせたのはメディアの力だと書こうかと思ったが、どうも今回に限っていえば、メディアがいっせいに騒ぎ立てた「から」というよりも、手元のスマホから不気味な空気が感じ取れた「から」家に引きこもった人たちのほうが多かったような気がする。


「から」、「ので」、「によって」。ぼくはすぐに因果を繋ぎたがる。AからBへと矢印を引きたがる。

でも、「○○だから△△」というように、原因と結果が個別に対応しているケースは、実際にはおもいのほか少ない。


アルゼンチンが優勝するのはメッシがいた「から」。そうだろうか。チームにはほかにも選手がいて、守備の役割もいれば、メッシにパスを出す役もいれば、メッシからパスをもらう人もいる。もっと言えば、監督やコーチが立てた戦術にも勝因はあったろうし、メディカルスタッフや衣食住を確保するメンバーだって貢献しただろう。国がサッカーに打ち込める環境であったこと、国民に幅広くサッカーを愛するムードがしみ込んでいたこととも無縁ではないはずだ。勝利のもとをたどってメッシひとりに帰着できるほど、サッカーの因果関係は単純ではない。


これがいわゆる複雑系というやつだ。将棋で勝つためには飛車を取ればいい、なんて一言で表現できるわけがない。紅白に選ばれるには秋元康にプロデュースしてもらえばいい、なんて一言で商機を掴めるわけもない。確実なことを言おうと思ったら、確率でしかものを語れなくなる。毎年検診を受けていても見つからないがんはあるし、ワクチンをしていても病気にかかることも残念ながらある。


そして、「だからこそ」、どこかの場所で何かを言う際には、複雑であることをわかった上で、そこから逃げないままに、「なんらかの矢印を引く」という立場をあえてとったほうがいいかもな、と思うことがある。ひとつの矢印ですべてを説明できるなんて思っていないし、相手に思わせてもいけないけれど、ぼくの目からはこの矢印が何度も見えるということと、この矢印で現象を近似するとわりとよいことがあるんじゃないかということを、対話の相手にきちんと伝えることが必要だ。それをやめてしまってはさみしいなという気持ちがある。

自分の言葉が「かもしれない」や「だろう」や「確率的には」や「傾向として」だけで構成されていくことには、しゃべる相手に対する申し訳なさや、すべてが偶然の積み重ねでしかないのだということを思い知らされることへの不安がある。ともすれば自分の示した矢印に「責任をとれ」と詰め寄られることの多い時代だけど、常時、何億という数の矢印が体の周りをヒュンヒュン飛び交っている状況で、そのひとつを手でつまんでしげしげと眺める時間はあっていいのではないかと思う。