東京のセブンイレブンでパエリアみたいなのを買った。ビリヤニだったかもしれないしドライカレーだったかもしれないが、あまりよく覚えていない。だいたい弁当のタイトルが長すぎるのである。何が書いてあるかを見ずになんとなくパッケージの形状と色味だけで味を予想する。それがだいたい合ってるのだから、コンビニの食品というのはすごいなと思うし、なんだか肩を落とす感じにもなる。
ペイペイの画面を表示させつつ店員さんに温めてくださいと言ったらそこに電子レンジがあるから使えと言われた。札幌のコンビニだとたいてい店員の背中側に温めスペースがあるのだが、確かに東京では入り口そばにレンジがあるよなあと今さら気づく。弁当を受け取ってレンジに向かい、誰が触ったかわからない扉を開けて中に弁当を突っ込んで、言われたとおりの7番のボタンを押す。やや過剰な振動音と共に庫内がオレンジ色に光る。しばらく待っていると包装のビニールだかラップだかがグワッと膨張しはじめた。なるほど破裂するのか、と思ってそのまま見ているとぎりぎりのタイミングで温めが終わって、ふくらんだ包装が急激にしぼんでいく。結果的によかったが店員は本当に7番と言ったんだったか。間違えたのではないか。3円で買ったレジ袋の中に弁当を入れる。冷えたビールやお茶の類いは出張のトートバッグの中に突っ込んである。
deleteCの表彰式に出席するため虎ノ門ヒルズに出かけた帰りだ。新橋虎ノ門アパホテルは、1階が死ぬほどギラギラで、部屋もこうだったらどうしようとハラハラしたが部屋は至って普通だった。トートをベッドに置いて椅子を引き、椅子にトートを移してチャックを開け、500 mL缶を3本冷蔵庫に入れて冷蔵庫のスイッチをオンにして、4本目のビールは冷蔵庫にしまわずにプルタブを開け、コートを脱ぐ前にまず一口飲んでしまう。これでもう今日はどこにも運転できない! という独り言を無音でつぶやく。東京出張なのだからそもそも車に乗っていないのだがクセになっている。お茶は冷蔵庫に入れず、未開封のままテレビの横に置いておく。朝になったら開けて飲むだろう。ぬるくていいのだ。レジ袋の中から弁当を出し、ちょっと湯気がついた袋の内側を外に裏返して、風呂場の扉のフックにかけて乾かす。あとで下着を入れる袋にし、札幌に帰宅したら今度は車のゴミ箱の袋にする。3円も払った袋だから何度も再利用するつもりである。ビールをもう一口飲み、コートを脱ぎ、スーツのジャケットも脱いでハンガーにかけ、ネクタイを外してまるめてトートの奥に入れる。ワイシャツもズボンも全部脱いで、もしユニクロで売っていても絶対に買わない形状のホテル感あふれたワンピース型部屋着に着替える。パエリアもしくはビリヤニを食べながらビールを飲んでいく。できればこの弁当ひとつでビール2本を飲んでおきたいと思う。
人にいっぱい会って疲れた。初対面の人ににこやかに話しかけ、deleteCのロゴを背景に何枚も写真を撮ってインスタやツイッターにあげた。こんな陽キャムーブをしたのは初めてだ、しかしやってみるとすごく簡単だった。自分の心なんて一切消費しなくても行動自体は可能だった。型どおりに動けばいいだけなのだ。自意識を休眠させて、顔面の筋肉を決まった方向に動かせばそれは笑顔になり、相手からは抜群の笑顔のお返しが届く。ああ、こんなに簡単なことだった。
deleteCのイベントの後半は、○人組を作ってのワークショップだったのだけれど、まるでぼくの脳とは関係なく体が、手が、口がするすると動いて、誰と組んだものかと思案している引っ込み思案の人たちに次々声をかけていくぼくがいた。あっという間にグループができた。若い頃には絶対にできなかった「社交」が今は容易だ。理由はぼんやりとだけれどわかっている。「陽キャという型」を演じることで今日は誰かの役に立てるという自覚。ボランティア、プロボノのひとつのかたち。ニコニコとするのが今日の仕事だった。たくさんの人に話しかけ、ハッシュタグをつけてツイートすることが「しづらい、できない」人の代わりにぼくが今日ここにいる理由だった。ぼくはもう中年なのだから背負って引き受けるのは当たり前なのだ。
3本目のビールを開け、deleteCの会場から持ち帰ったシンポテトの試供品に手を伸ばす。リプライを見て返事をする。恐縮です。おそれいります。ありがとうございます。よろしゅうございました。感謝とへりくだりを20回ほどくり返す。フォローしてくださった人のホームを見に行ってフォローを返す。ハッシュタグ #deleteCを探してリツイートをかける。リアルもネットも変わらないのだなと思った。
ぼくは今、本当に大人になった、と思う。社会で生きていく術を身につけたとはっきりわかる。ああ、息子にはまだこんなことをしなくていいよと言いたい。君にもおそらく、ぼくと同じ能力があるけれど、こうやって動き回るのは40を越えてからでいいと思う。ぼくは社交能力が低くてこれまで損してきたこともいくつかあったと思うけれど、今あらためて社交をこなせるようになって思う、今、おじさんになってからできればぜんぜんいい。20代、30代に、こんなことができる必要なんて、少なくともぼくにはなかったのではないかと思う。やれるようになって、わかる。社交なんて自分を何も変えてくれない。ぼくはずっと、荒れ地に枝豆のツルがひょろひょろと伸びていくように、コミュニケーション不全環境で話したり聞いたりすることがつらいなと思いながらやってきて、それでもなんだかぼくになれたのだ。