2023年2月22日水曜日

病理の話(749) 人体の基本は出し入れである

「理系(とされるもの)の諸問題」の多くは、的確な理路があれば語り方が1通りに決まるというわけじゃなくて、レイヤーごとに答え方が変わる。たったひとつの真実を見抜くというコナン君は一見理系っぽいが、じつは理系あるあるの疑問に答えるのはけっこうヘタなのではないかと思う。

一例をあげる。「どうして夕焼けは赤いの?」。これには光の散乱を説明することによる「物理学的な答え方」ができる。ググるとレイリー散乱の話とかが必ず出てくるしそこそこ有名だろう。しかし、この回答はあくまで、「物理学で説明しやすい範囲」でしか答えていない。この質問が持つ豊潤なニュアンスの一部を拾い切れていないのだ。たとえば、「なぜ人間は夕焼けを赤やオレンジという概念で理解するの? 青や緑ではだめなの?」と書き換えるとわかりやすいだろうか。火や血、あるいは肌色などと、夕焼けが物理学的には似た波長であるという説明自体はいい、それはわかった。しかし、それらを我々が「赤」と認識している理由に必然性はあるのだろうか、という疑問に物理だけで答えるのは難しい。ストIIの2Pカラーのようにぜんぶ青になっている世界線だってあり得たかもしれないわけで、ぼくらはもしかすると青を暖色系と呼んでいたかもしれない。ぼくらがいっせいに「赤」という概念で把握できているというのはなんなのか。あるいは、ぼくの言う赤とあなたが言う赤はじつは違うのか。……こういった脳科学的・認知科学的な話については、物理学的説明だけではうまく回答できない。「どうして夕焼けを見ると人間は感動するの?」になるとさらに難しい。物理学だけでも進化生物学だけでも、文化人類学的アプローチだけでもだめである。複合しないといけない。おもしろくなってきやがった。


これ系の話でぼくが立場的に一番耳にするのはなにかな……と考えてみた。「生命って結局なんなの?」というざっくりとした質問がなにげに一番多い気がする。一見雑だが十分に奥深い。大学生に合コンで適当に語ってもらってもいっこうにかまわないチャラさを持つ一方で、とうのたった病理医が40を越えてなおネチネチ考えるに足る懐の広さもある。

「生命って結局なんなの?」という質問にも学問のジャンルごとに答えがある。ひとまず解剖生理学的な解釈を試みると、「生命とは結局、命続く限りなんらかの出し入れを行っているもの」となる。生命には必ず膜というか境界があって、それを境に内外がしっかりわかれていて、かつ、栄養を取り込んで不要なものを出すという仕組みが絶対にあって、ここが生理学的には本質だ。もちろん代謝の話を化学(バケガク)的には違った角度から解説することもできるし、種の保存こそが生命の本質という遺伝学的(?)な解説も可能なのだがいったん落ち着いて解剖生理学の話につきあってほしい。とにかく出し入れしているのである。ついでにいうと栄養や水分を取り込みつつ外敵ははね返すという選択制も見逃せない。取り入れる穴、出す穴が肉眼的にわかるタイプの生物がいる一方で、生化学的な穴……チャネルやトランスポーターと呼ばれるもので細胞膜などに(ときに開閉式の)穴を開けて内外で物質をやりとりするタイプの極小生命・細胞もあるからサイズ的にもバリエーションがある。たとえば哺乳類の場合、この出し入れを体表でやろうとせず、口から肛門につながる内的な通路を作ってそこを複雑化させて、出し入れのもろさを体内に格納している。けどまあやってることは結局出し入れだ。

さあ、このように解剖生理学的な答えをしたとして、「生命とは?」という質問すべてに答えたことになるだろうか? ならないだろう。生命ってそれ以外にも切り口・語り口あるよね、と誰もが反論したくなるに決まっている。メシとウンコとセックスの話だけで「生命とは?」を語るのはしんどい。ああ、だから、世界各地にさまざまな信仰や文化が存在するのか……とまで言うとちょっと極論しすぎかもしれないが。解剖生理学のレイヤーだけで語られても困る、しかし、解剖生理学のレイヤーだって知っておいて損はない。



夕焼けにしても生命にしても言えることなのだが、これらには複数の「正解っぽい仮説」がある。誰かが正解を言って終わりにならない。生命とは! とか、動物とは! みたいな話を、年に一度くらい、居酒屋でガンガン盛り上がりながらしゃべってみたいものである。コロナ終わんねぇかな。