2023年2月15日水曜日

真の雑談

『違国日記』がすごい。最近10巻が出た。展開もセリフも絵も震えるほどかっこいいし、人間ここまで世界を創作できるものなのかと、脱帽しっぱなしである。そして、おそらく読む人みんな言うと思うのだけれど、「雑談」がいい。雑談の解像度がえぐい。



最近Podcastで、知人が「雑談」名義の番組をはじめた。ぼくも先輩といっしょにやっているPodcastで「複雑談」という(複雑な雑談の)回をときどき放送している。ためしにApple podcastで「雑談」というタイトルで検索したら出るわ出るわ、みんな雑談が大好きなのである。目的のない会話、緊張しなくていい会話、気の置けない関係の相手との会話。しかし、ぼくらがPodcastでやっている雑談なんて、違国日記のそれとくらべたら、まるで「雑談」ではないのである。

ぼくらがやっている雑談には雑さが足りない。意図まみれだ。欲望にまみれていると言ってもいい。ヤマがほしい、オチがほしい、話法を駆使してネタとしておもしろくなったほうがいい。「人志松本の酒のつまみになる話」がぼくらのやっている「自称雑談」の頂点であろう。これらを雑談と呼んではいけない、雑談に失礼なのではないかとすら思う。

違国日記にふんだんに出てくる真の雑談を一度でいいから見て欲しい。本人達が役に立つなんてまったく思ってない雑談。あらかじめ用意したものではない中動態の雑談。発射ではなく反射の雑談。無為の雑談。美しい。キャラクタにこんなことを言わせて、あとあとの展開でこう拾おう、みたいな漫画家の意図がにじんでいない。透き通っている。キャラクタは漫画家によって創造されたのではなく、おそらくその世界に本当に生きていて、漫画家はそれを高解像度で写し取る観察者なのだ。だから雑談が本当に雑談なのである。槙生や笠町くんが話すのは槙生や笠町くんがその日たまたま思い付いた瞬間的な印象。もしくは槙生や笠町くんが30年以上自分の心の中に積もらせてきた雪山のような心情からこぼれ落ちてきた雪のひとひら。朝とクラスメートの会話は何度読んでも「雑談」で、心の底からおそれいる。史上最高の雑談。そして、雑談する中から、本人達が具体的には一切言及していないものがちらちらと垣間見える漫画表現の粋。


『違国日記』の雑談を見てみるといい。あれを見たが最後、我々は、気楽に「番組で雑談しよう」なんて言えなくなるし、我々が雑談と名付けているものと違国日記とを同じ言葉で言い表そうとした今日のブログの価値もまたなくなっていく。対話でも座談会でもない、交換でも贈与でもない、自己啓発セミナーや売れっ子編集者などが名前を付けたことがない、田汲朝たちの雑談。