そこまで強烈に傾向があるってわけでもないんだけど、このブログ、記事タイトルが体言止めのことが多いなと思った。最近ちらっと見て思っただけだけど。もう少し文章っぽいタイトルも付けているように思っていたのだがそうでもなかった。自分で勝手に思い描いていた印象と実際の姿が異なるというのは、ほんとうによくあることである。
……という書き出しで、ぼくはおそらく今日、「セルフイメージと実際のずれ」みたいなことを書くつもりだった。しかし、その文章の結論、すなわちブログ記事の着地点が「どうやってずれを埋めていくか」、つまり差を縮めていくかになるだろうなと気づいたところで、それはなんだかつまらんなあと感じて指が止まった。
この歳になって、「ずれ続けながら走り続けているもの」がおもしろいと感じるようになっている。補正するばかりが目標だときつい。理想に向かって微調整をし続ける人生はしんどい。「正解」がわからないままなんとなく感覚的に、右左にちょんちょんとハンドルを切る。マリオカートのゴーストみたいな「正解の走行パターン」に自分をフィックスしていくのではなく、何からどこまでずらそうとしているのかもわからないままにあれよあれよとずれていく方がリアルな過ごし方だと思える。
理想とか真実とか本来の場所みたいなものに調整しようと試みるのは人の常だ。なんらかの目標を定めて「こうあろう」と「目指す」のは本能に近い。けれど、結局は、もともと行こうと思っていたルートからジワジワ外れていく。目で指していたものとは違うものが前に現れる。それが趣深いし興味がある。調整とか修正と言う言葉を使っている時点でもう違うのかもしれない。微弱に舵を取ってはいる。ただしレールに合わせるのではなく、あるいは道に沿うのでもなく、太陽や星を見ながらざっくりと波間を航行していくような……と書くと航海士に怒られるだろうか。「私たちだってちゃんと調整してるんだ」とばかりに。でもワインディングロードの例えよりもヴォヤージュの例えのほうがやっぱりしっくりくる。腕がないと難破するというが噴火湾の中をするする対岸に渡っていく毎日でもよいではないか。
ブログ記事に体言止めが多いことをどう修正していこうか……と思ったがそれももう気にするのはやめにする。書き終えた文章をざっと見て気になった部分をピックアップしてタイトルに据える日はどうしたってフレーズの抜き書きになるからそれはもちろん体言止めっぽくなるだろう。手癖、脳癖がそうしたいというならばそうさせておけばいい。気づいたころにふと俯瞰して「なんか違うな」と思った日にぼくはおそらく無意識に舵を少しだけ切るだろう。その程度でよい。右の道か左の道かと選択するほどのことでもない、舵をときおり一、二度ほど切るような船旅の話。