2023年6月13日火曜日

病理の話(786) 染色のキレ味とホルマリンの歴史

『病理と臨床』というマニアックな(たぶん病理医以外はほぼ読んでない)雑誌がある。2023年の6月号では、「病理検査室のマネジメント」という特集が組まれていた。マニアックにも程がある。つまりは管理職的な人が読む号であり、まあ、おそらく、若い人とかはほとんど読んでいないんじゃないかと思う。でもこれがぼくにとっては地味におもしろかった。おじさんだからね。


マネジメントとは具体的になにをやるのかというと、「正しい診断が検査室からいいスピードで出続けるように、システムを整える」ということだ。PCとネットワークを用いた報告の様式とか、主治医がレポートを読み忘れることがないようにアラートをセットするとか、そういった部分に気を配る。そして、我々は「プレパラート」に細胞をのせたものを顕微鏡で見るのだけれど、この細胞は「染色」されているということを忘れてはいけない。細胞を見やすくするために色が付けられている。その色づけの品質管理をしなければいけないのだ。昨日は細胞が見やすかったけれど今日はイマイチ、では困る。


もともと、細胞の染色は技師さんの腕次第……というところがあった。ただし現在は多くの工程が機械化・自動化されている。だったら品質管理も機械の問題だよなーと思っていた。しかし意外なところに盲点があった。

それは、染色の過程の前に行われる作業である。すなわち「ホルマリン固定」の段階だ。ぼくはこのホルマリンがけっこう大事なのだということを、今さら知った。へええと思った。


博物館とかでたまに、動物やら虫やらを「ホルマリン漬け」にした標本というのが置いてあるだろう。ホルマリンは、細胞を「固定」して、劣化を防ぐはたらきがある。昔は、20%という濃度を使っていたし、pHが酸性だった。それくらい濃さのホルマリンを使うと、細胞がかなり迅速に「固定」され、その後さまざまな工程を経て染色された細胞はきれいに発色する。

しかし、この20%酸性ホルマリンには、後に分かったことなのだが弱点があった。細胞にとって強烈な固定をもたらす一方、細胞の中にあるDNAやRNAに与えるダメージも強かったのだ。細胞のかたちだけを見て診断していたときはそれでよかったのだが、現在は、とってきた細胞の中の遺伝子を検査する手法も用いる。あまりに強力すぎるホルマリンでは検査がうまくいかなくなってしまう。

したがって、現在、多くの検査室では「10%中性緩衝ホルマリン」を使っている。昔使っていたものよりも、濃度は下げ気味、pHは中性よりにしてある。これによって、細胞の内部にあるDNAやRNAへのダメージが極力おさえられている。

病理医をたばねる日本病理学会は、「あとで遺伝子検査をやるかもしれないので、細胞を固定する際には原則、10%中性緩衝ホルマリン以外は使わないでください」というおふれすら出している。ぼくもそれに普通に従っていた。検査室の精度管理はばっちりだぜ! くらいに思っていた。

しかし……裏を返せば10%中性緩衝ホルマリンでは、「細胞の固定が甘くなる」のである。するとどうなるか?

いっぺんにホルマリンが浸透せず、じわじわとゆっくり固定されていく過程で、細胞内部の水分量にムラが出るなどの不具合が人知れず生じる。すると、「細胞の染色」の過程に影響が出て……詳しい説明はさすがにはぶくが……細胞の「コントラスト」がつきにくくなるのだ。

紙面に載っていた染色を見比べてぼくは驚いた。10%中性緩衝ホルマリンを用いた細胞の写真は、ぼくが普段見慣れている感じで、ああそうね、まあ胃粘膜なんてのはだいたいこうだよね、くらいの見た目だったのだが、昔ながらの20%ホルマリンを用いたものは、細胞の輪郭がめちゃくちゃはっきりしているし、赤紫と青紫のコントラストもくっきりしていて異様に見やすい。うわあ、こんなに違うのか、と思って、少し時間を置いて、ものすごい衝撃がやってきた。


「あああ! 20年前に勉強はじめたときの教科書、だいたいこういうきれいなコントラストになってた! それでか! ど、道理で、ぼくが撮影した細胞の写真はいまいち教科書みたいな色味にならないなあと思ってた……!!」


これは……本当に技師さんとか染色装置を開発した人に失礼だなと思うのだけれど、ぼくはじつは(誰にも言わなかったけれど内心)、最近の染色が昔にくらべてボンヤリしているのは、技師さんの伝承してきた「能力」が落ちてきているのではないかと思っていた。医学が進歩して、免疫染色のような手法がたくさん加わり、今の技師はどんどん忙しくて専門的な仕事になっているのだけれど、一方で昔の職人芸みたいなものが時間とともに失われて、染色のクオリティみたいなのが少しずつ落ちていると思っていたのだ。でも、違った。遺伝子検索という大事な部分を担保するために、「固定の良さ」を犠牲にした結果、染色は悪くならざるを得なかったのである。


いやーこういうの勉強しないとわかんないよ。ベテラン病理医は知ってたんだろうけれどぼくは全く知らなかった。めんぼくない。染色って奥が深いんだなあ。