2023年6月8日木曜日

漂流検査室

「心がざわつく」というだけで、けっこうわかってくれる人が多い。ざわつくというのは便利な言葉だし、なかなか不思議な表現でもあるなと思う。ざわざわ、というオノマトペに「つく」という接尾語。

何がざわざわしているのかというと、それは脱分極して再分極するまでの間の心筋かもしれないし、気管の線毛かもしれないが、あるいは胸部を走行する交感神経のシナプス間隙なのかもしれない。

いずれも胸の中にある。だから胸に手を当てるのだろう。手当てによって興奮を落ち着かせる。そこに心がある。

「心は胸にはないんだよ、脳の中にあるんだ」という説明を受けて納得して何年経ったろうか。35年か。40年か。今になって思うのだけれど、脳というCPU+メモリだけで人格が構成されているわけがない。心は脳の中だけに収まらない。身体に張り巡らされたセンサーからの入力が常時思考に影響を与えていることは言うまでもない。心の支部が体中にあると解釈するべきだ。脳は心の大事な一要素だが、すべてではない。脳から連続した中枢神経と、何度かシナプスを乗り換えた先の末梢神経とを、ここからここまでが心ですと切り分けることに意味はない。

AIは身体を持たなければどれだけ進化しても生命にはたどり着かない、みたいな本を読んだ。生命にたどり着かれてたまるか、と思うし、身体なき脳がいくら思考したところでそれは我々が定義する思考とは別モノなのだから心配には及ばないとも思う。ただぼくらが気にしているのは基本的にAIが人間に成り代わるかどうかではなくて、人間が楽しんでやっていることをAIが横取りしたらムカつくなとかそういう程度のことである。病理診断をAIがやってくれる未来に、「本当は自分でやりたかったのに今はAIのほうが早くて正確だから自分でやらせてもらえない」となったら腹が立つだろう。しかしぼくは病理診断を自分でやりたいなんて言ったことはない。ぼくは病理医でありたいけれど病理診断だけが病理医の仕事ではない。切り分けるから間違うのだ、そこを適当にしておけば、AIに嫉妬する必要だってなくなる。

ここからここまでだよと定義するからおかしなことになる。デフォルトモードの守備範囲は想像以上にファジーだ。彼我の境界なんて簡単に引けるものではない。病変範囲を確定する仕事ばかりしていると、つい、ここからが自己だと決定したくもなるし、若い頃はそれが生きがいだったのだけれど、最近少しずつ視力が悪くなり、ときに手足の先が世界と癒着しているように見えてしまうことがあるくらいで、のったりのったりと緩い振幅でときおり局所的にエントロピーを下げ、結果としてそれが胸の中で何かをざわざわと揺らしていて、ああ生命なんてあいまいなんだなと思う。自分の心のある場所もたまにその辺にいる人の指先だったりするのだ。思った以上に漂流する。