2023年8月9日水曜日

病理の話(804) フレックスの範囲

病理診断には、「プレパラートが手元にあがってきたらすぐに診断しなければいけない」といった制限時間の縛りはさほどない。


病理医になろうと思って勉強している人は、ボスからたいてい一度は、「急がなくていいからゆっくり見てね」と声をかけられていると思う。


わりとぼくらはゆっくり診断できるのだ。


救急診療だとそうはいかない。カップメンにお湯を入れた直後に患者が運び込まれてきて、当番医が「あと3分待ってから7分で食べるから10分後に行きますね」とか言っていたら、その間に患者は死んでしまうかもしれない。

内科の外来にたくさん患者が待っていて、なんか疲れたからここから先は明日来てくださいというわけにもいかない。Twitterでもたまに医者が「今日は100人診療しました。だいぶお待たせしてしまって申し訳ない」みたいなことを言っていて、そうなんだよな、お待たせしてしまうのはつらいよな、それでも自分のご飯とか休憩をあとまわしにしてその日のうちに診療してしまわないといけないんだから大変だよな、とお察しする。

でも病理診断なら、今日見きれない標本を明日見てもそんなに問題はない。

少なくとも数時間後にあらためて見直す、くらいのことは日常的である。

ご飯をジャマされることはめったにない(迅速診断というのがあるにはあるが。

あらかじめ主治医が、患者に向かって、「病理検査の結果は2週間後に聞きにきてください」と説明してある場合、我々病理医が検査の翌々日くらいに結果を出そうが、4日後に出そうが、6日後に出そうが、患者の説明日は変わらない。

病理診断にさまざまな経過がありえることをわかっている主治医は、「結果の説明は2週間後にしましょう」というやや余裕をもたせた診療の設定をしている。病理医にとってはありがたい話である。



そんな病理医の仕事は、よくフレックスと言われる。子育て中の医師が、夕方に子どもを園にお迎えに行き、ご飯を食べてパートナーの帰宅を待ち、パートナーが帰宅したあとにあらためて出勤して顕微鏡の続きを見る、もしくは早朝に出勤して診断の続きを行う、といった話を聞く。


ただし、ぼくは病理診断をかなり早く仕上げるほうだ。プレパラートができたらその瞬間にまずすべての検体を一気に見る。プレパラートは患者ひとりずつ作成するのではなく、1日の中でまとめて数百枚を処理するので、同時にたくさん仕上がるが、その全部をとにかく最初の2時間、3時間でガッと見る。「とにかくいそいで一見する」というのがかなり大事だ。

これは個人的な感覚なので、すべての病理医がこうするべきとは全く思わない。もっとゆっくり仕事をしてもぜんぜん通用する。しかしぼくはとにかく「第一手」を急ぐようにしている。

できれば第一手の段階で診断を瞬殺で付けてしまう。しかし、診断が難しい検体は、さすがに一瞬で決着がつくとは限らない。そういうときはじっくり時間をとって考える必要がある。

この、「じっくり考える時間」をもうけるためにも、まずチラ見するというのが重要である。



プレパラートがどさっと仕上がってくる。そこでつい「まあ翌朝でいいか」と気をゆるめてしまい、帰宅して、日をまたぎ、翌日ちょっと別の仕事で忙しくなって、プレパラートをしっかり見るのが夕方になって、1日おくれでようやく顕微鏡を見はじめ、たくさんの患者の検体を見ながら1時間半ほど経過したところで、ひとりの患者の細胞をみて「あっ、これ珍しい病気だ!」となって、追加の染色をオーダーしようと思ってもその日の検体処理業務はもう終了していて、追加染色のオーダーを通せるのが次の日の午前中になり、新たにプレパラートがやってくるのにさらにもう一日(最初のプレパラートがあがってきた3日後)……みたいなことを一度でも経験すると、あるいは未遂であっても体感してしまうと、もう、「しばらくおいとこ」という考え方にはならない。



では、ワークライフバランスを大事にしたい人はどうすればいいか。

「上がってきた標本をまずはちらっと見る」の時点での精度を高める。これは時間がかかりそうだな、という症例を早めにより分ける。業務のスケジュールのどこに「診断の難しい患者」をはめこむか、という段取り力を鍛えておく。

初見時の段取りさえうまければ、子育てをしようが旅行に行こうがゼルダをやろうが、患者や主治医を本来の待ち時間以上に待たせることなく、うまく診療を進めていける。




言い忘れたけど珍しい病理診断をするときには、「主治医がその診断名をみてぎょっとするかもしれない」ことをきちんと想定しておきたい。

自分の手元を離れたら病理診断はそれでおしまい、ということはない。

病理医が付けた診断が現場で走り出すときの時間感覚も持ちたい。

何十万人に一人しか遭遇しない病気の診断がついたら、主治医だって患者だって、その後の対応をいろいろ考えなければいけない。○○病? なにそれ? となることは十分にあり得る。

診断名を見たときに主治医が十分に勉強し、最新の医学に対応した医療の準備を整えられるように、病理医は診断をなるべく早めに出す。

「明後日患者が来て説明するんですよね? なら診断は明日までに出しますね」は、病理医の都合としてはまあわかるのだが、それを見て主治医が対応する時間を一切考慮していないということになる。それではいかにも不親切だろう。


……というのがぼくの考え方なのだが、これは別に共感を得たいとは思っていない。

誠実にやろうと思ったら早いほうがいいに決まっている。まあでもケースバイケースである。診療は仕事量が多く、複雑で、人生は短く、ひとりの人間がほどこせる業務にも限りがあり、理想と現実の間にはギャップがある。それでもまあ……いや、ぼくの考え方はしょせん、ぼくだけのためにあるので、あまり気にしなくてもいいと思う。