2023年3月31日金曜日

天下一の味覚

最近、病院の1階に入っているローソンで夕方にオヤツを買うようになった。44歳までいちども経験したことのない習慣であり、多くの知人に「それはもったいなかったねえ」みたいに言われたので、そうか、オヤツって食べていいんだな、と納得して取り入れることにした。帰宅して晩飯を食うまでにはまだ5時間くらいあるからここでエネルギーを補給しておくのはよいことだ。なぜ今まで気づかなかったのだろう。

最初は、ジェネリック・バターサンドとかジェネリック・栗まんみたいな手で持てるお菓子ばかり買っていたのだ。そこから少しずつ幅を広げて、ワッフルとかシュークリームみたいなものを買ってもみたが、さすがにそこまでクリームクリームしているものを食うと晩飯に影響しそうで気が引ける。小さいのがいいと思う。

今日買ったのは「ブルーベリーのチーズケーキ」である。プリンのような容器に入った小さなオヤツで、乳白色のチーズケーキの上にわりと分厚くて濃厚なブルーベリーソースがどんと乗っていていかにもうまそうだ。スプーンを付けてもらった。ぼうっとした今日のぼくが店員だったらきっと「スプーンとお箸どちらにしますか」と客に訊ねて笑われただろう。客のほうでよかった。フタを剥がそうと指を添えると、商品の正式な名前が目に入った。「ブルーベリーのチーズケーキ ブルーベリーソースがけ」。

そうかあ、ブルーベリーを混ぜ込んだチーズケーキの上に、さらにブルーベリーソースをかけている、ということか。「追いブルーベリー」だな。

昔、マンガ「BAR レモン・ハート」で、タリスカだったかボウモアだったか、クセの強いモルトをハイボールにしたあとに、上に原酒のウイスキーをちょっとだけフロートするという飲み物を紹介していて、すごくうまそうだなと思っていたら、現実に存在するなじみのバーで同じ出し方をしていると知り、狂喜乱舞して注文し、うまいうまいと飲んだなあなどと急激に思い出が蘇る。バー……久々に行きたいな。忘年会も新年会も送別会もなかった、歓迎会もたぶんやらない。でももう飲みに行ってもいいような気はしている。しばし呆然とよしなしごとを考えてから、ブルーベリーのチーズケーキにスプーンを入れて食べ始めた。

うまい。オヤツってうまいな。ブルーベリーのほどよい酸味とチーズケーキの濃密な舌触りとがシーソーを軽く揺らして楽しくバランスをとっているかんじ。


しかしこれブルーベリーのチーズケーキではないよな、と思った。チーズケーキのブルーベリーソースがけであって、ブルーベリーのチーズケーキのブルーベリーソースがけではない。わかっていただけるだろうか。炭酸にウイスキーをフロートしたものと、ハイボール(ウイスキーの炭酸割り)にさらにウイスキーをフロートしたものとは別モノだろう。ぼくは商品名を見て、「ブルーベリーの味や風味がねりこんであるチーズケーキ」の上にさらにブルーベリーソースがかかっているということに興奮したのに、これはつまり「プレーンなチーズケーキの上にブルーベリーソースがかかっているだけ」ではないか、なんだかダマされたな……。


いや……ダマされたは言い過ぎだな……うまかったからいいか。そう思い直して食べ終わる。ごちそうさまでした。ちなみにこういうデザートって検索したら出てくるのかな。これか。ローソンで作っているわけではなくて、お菓子の専門業者が作ったものがローソンで売られているということらしい。


https://www.andeico.co.jp/2015/01_product/00_new/blue_berry/


「アンディコ」のチーズケーキ。解説を読む。


「オーストラリア産クリームチーズを使用したチーズプリンと、自家製ブルーベリーソースの2層デザートです。」


ん?


「オーストラリア産クリームチーズを使用したチーズプリンと、自家製ブルーベリーソースの2層デザートです。」


あっ! チーズケーキですらない! チーズプリンだって!! さっきめちゃくちゃ偉そうに「ブルーベリーのほどよい酸味とチーズケーキの濃密な舌触りとがシーソーを軽く揺らして楽しくバランスをとっているかんじ」とか書いちゃったけどこれチーズケーキじゃないじゃん! 


つまりぼくはブルーベリーの風味付けをしたチーズケーキにブルーベリーソースがかかったものを買って食べたつもりが、プレーンなチーズプリンにブルーベリーソースがかかったものを食べていたのだ。ハイボールにウイスキーをフロートしているものを飲んだつもりがじつはホッピーのソーダ割りにドランブイを……まあもうおいしかったからいいか……。

2023年3月30日木曜日

病理の話(761) 教える機会を自分で作る

「人に教えることで自分が勉強できる」の法則はけっこう普遍的である。


・何度も他人に説明しているうちに自分の中で要点がまとまっていく

・自分が説明したあと、相手が何か質問してくる部分はたいてい、さいしょの説明でうまく伝えられなかった部分であるから反省材料になる

・自分よりも上手に教えている人のすごさがわかるようになる(のでそこを目指せるようになる)

・自分が誰かにものを教えるときの教科書・資料のすごさがわかるようになる(のでそこをより深く読めるようになる)

・説明した相手が「なるほど、こういうことですね!」と本人の立場から理解を表明するとき、その相手が持ち込んだ新たな情報からこちらが逆に教わることがある(教育はいつでも双方向的である)


「教える側に回る」ことの利点は複数ある。

そして、病理医という職業は本質的に、「誰かに何かを教える側」である。主治医をはじめとする医療従事者に、「ある細胞をみてAという診断をする根拠」を毎日説明し続ける職業だ。だから、キャリアを積むに連れて病理医は次第に教えるのがうまくなっていくし、人に教えた量にあわせて勉強のしかたもどんどん上手になっていく。病理医は処置も手術も患者との会話も処方もしないで、そのぶんずっと勉強しているのだけれど、そこにさらに「教育」が混ざることで、勉強の量・質とも非常に高くなるのである。

そんな病理医の姿を臨床医がみると、しばしば、ドクターズドクター(医者の医者)という二つ名を持ち出す。たぶんに広告的なニュアンスが感じられるあだ名だが、どちらかというと我々はドクターズティーチャーである。「先生の先生」と日本語にしたほうがおもしろい。言うまでもないが前者の「先生」は医者、後者の「先生」は教師のことである。



……ただ、以上はぼくの理解であって、必ずしも世の病理医がみな同じ意見ではない。

たとえば、病理医がAと言ったらAなんだ、という診断をするタイプの病理医もいる。主治医に自分の思考過程を説明しようとはしないで結果だけをズバンと返す。一部の主治医も、そういうドライな病理医のほうが「検査」っぽくて使いやすいと思っているフシはある。

また、教師系の仕事をなるべくせず、その分の時間で研究に没頭する病理医もけっこういる。細胞をみて診断をすることよりも、その病気のメカニズムや治療方法の開発などに興味があるので、主治医とコミュニケーションする時間があったら論文を書く、みたいな人だ。医学の発展に欠かせないし個人的にも夢があっていいと思うが今日の話とはずれる。

あるいは、自分が学ぶので精一杯だから教師役なんてとてもとても、と謙遜するような病理医もいる。けっこういる。細胞から診断することのわけを知りたいならもっといい先生がいます、もっといい本がありますと言って、自分では説明せずに「識者」につなぐ。わりとよく見かける。けれども冒頭の話を思い出してほしい。誰かの教師でいることは何よりも自分の勉強になるのだ。「自分なんてとてもとても」の時期が長いと、それだけ効果的な勉強をする機会を逃している、とぼくなんぞは思うのだが、ま、勉強というのはペースをあげればいいというものでもないので、その人なりのペースでゆっくり登坂していけばよいのだろう。

そうそう、「周りに教える人がいない」という病理医もいる。主治医があまり病理診断科とコミュニケーションをしたがらない、病理検査室に細胞と検査伝票を届けたらあとは結果が出るまで一切病理医のことを忘れている、みたいな環境は頻繁にある。そういうところで主治医のもとに出向いて「診断のわけを教えます」とやったところで相手は聞いてくれないだろう。若手病理医が研修に来るような病院でもないとすると……病理医は貴重な勉強の機会を失うことになる。では、どうすればいいか?


ひとつの答えは「ブログを書く」ことかなと思う。がんの診断根拠、免疫染色の効果的な使い方、病理検査の依頼書に書いてほしいことなど、病理医は普段なにを考えているか、どう勉強しているのかを記事にまとめてネットの海に流すのだ。すでに多くの人がやっていて、いい教科書もやまほどあるから、自分がさらにそこに加わる意義はない、みたいな考えではもったいない。くりかえすけれど誰かに教えるつもりで資料をまとめ、頭の中を整理し、誰かに語りかけるように論調を組み立てること自体が自分の勉強になるのだ。もうあるから要らない、ではない、自分のために要るのである。自分が昔書いたブログの記事をときどき読み返すと、ここはずいぶん偏っているなあとか、この書き方だとまちがって伝わるかもなあとか、これは現場で引っかかりがちな疑問についてあえて避けてしまっているな、みたいなことが次々と思い起こされる。自分で自分にフィードバックをかけていく。誰かの教師でいることが大事なのではない。自分が自分にとっての教師でい続けることが大切なのだ。それをやらなければ、長い人生、ずっと病理医をやり続ける=ずっと勉強し続けるなんていかにもしんどいだろう。ブログをやるといい。ただし、プラットフォームとしてnoteを使うのは、スキやらフォローやら、承認欲求を満たす仕組みが多すぎて、気が散るからあまりおすすめできないのだけれど……まあ、この際、どこでもいい。

2023年3月29日水曜日

新作落語としての死神

着々と先の仕事が片付いていく。講演や講義の資料はかなり先のものまで完成している。とはいえ、新年度になってみないとわからない類いの仕事もポツポツあるし、そもそも講演や講義というものは事前準備だけで終わるものではなくて当日の聴衆の反応を見ながらフィックスしていく作業も必要であるから、仕事の準備が順調だからといって今後やることのすべてが自動化されたわけではない。

が、でも、総論として「準備万端」であることは間違いない。準備ができていないことに比べたら今がどれだけ楽なことか。つまりは喜んで安心するべきなのである。

ついでに言うと今のぼくは、どこの大学に行って将来何をしようかとか、大学で何を学んでどんな資格を取ろうかとか、職に就いてからどのように初期のレベルアップをしようかといった、人生の前半戦に必発の悩みからは遠く離れたところに立っている。つまり、この先に押し寄せる仕事の準備が万端なだけではなく、この先に選ばされる「重大な選択肢」みたいな負荷もぜんぜんないのだから輪を掛けて楽なのだ。

こんなにストレスのない暮らしは思春期以降はじめてなのではないか。



そして、だからこそ、近頃のぼくはすこし燃え尽きているのだと思う。半生で背負い続けた精神的な負荷が少しずつ減っているために、かえって、押しつけられていた心の、「抑え」になっていたものが外れて、ふわふわと隙間から漏れ出ていくように何かの総量が目減りしている。選択をしない暮らしにおける終わらない微調整にはそれなりの……というかおそらく人生で最大の事務能力が必要で、いかにスキルが向上したからといって決してそれは片手間にスイスイこなせるような類いのものではなく、つまり中年には中年なりの「全力を傾けてやらなければならない小仕事」があるのだが、心の中から何かがこぼれて目減りしていっているそれはおそらく化石燃料で、エンジンの回転数があきらかに減っていて、でもスキルは十分に中年レベルに高まっているから、ぶっちゃけ、タイヤの回転もトルクも減っていてもなんだかんだでのらりくらりと前に進んでいくことができてしまう。


そのことがつまらないなあと感じる。




日曜日に猛然と働いて、午前中であらかたやりたいことがなくなってしまい、となれば次は4か月後の講演をひとつ作っておくとこのあと4月が楽に過ごせるなあ、と、思ったのだけれど、楽に過ごしたからといってなんなんだ、という気持ちが湧いてきてしまって、昔サザエさんだったかコボちゃんだったかで、「片足の爪を切った後、もう片方の足の爪を切るのは退屈なことがわかっている翌日にとっておく」みたいなシーンがあったっけな、というのを思い出しながら、仕事をそれ以上進めるのをやめてスープカレー屋を訪れた。日ごろ、人が多そうな昼飯どきに外食をすることはめったにない。11時台前半にずらして食事をすることが多い。けれど今日は、混んでいたからといってなんなんだ、待たされたから何が悪いんだという気持ちだったので、12時半くらいにあるスープカレー専門店の総本店を訪れた。先日、系列店にはじめて入って食べたスープカレーがおいしかったので、今日もその延長戦のイメージで、ただし同じ店で同じ店員に会うと照れてしまうから、本店にしておこうという小さな逃げを選んだ結果である。総本店の駐車場は満車になっていなくて、ぼくは車を停めて店内に入り、店頭の看板にあった本日のおすすめメニューみたいなものを頼んでからradikoで燃え殻さんのラジオ「BEFORE DAWN」を流して待った。ラッシーが先に届いた。それをちびちびやりながら、燃え殻さんが自分のエッセイを自分で朗読するところを聴いた。「ボクたちはみんな大人になれなかった」というタイトルをつけながらもあの小説では主人公たちが否応なく大人に取り込まれていく、そんな中で彼女だけは子どもの心を残したまま――というあの作品の雰囲気はスープカレー屋と非常によくマッチして、ぼくは自分がうまくなじまなかった人生のことをいろいろ考えた。そうして待っているうちにカレーが運ばれてくればよかった、というかまあ日曜日のありかたとして引っかかりなく典型的だったはずが、問題がひとつ生じ、それはカレーがなかなか来なかったということだ。入店時にラッシーを頼んだときに「LINEでおともだち登録していただければラッシーは無料ですよ」と言われ、そういう登録系はこれまでの人生の中で基本的に即座に断ってきたのだが、今のぼくは店員や店舗の下心みたいなものに平気でのっかって何が悪いんだという方向に精神が持っていかれているので、ああそうですか、ではさっそく、と店員の前でホイホイLINE登録してなんらかの送信ボタンを押した。その無料ラッシーはすぐ運ばれてきたのだがそのあとの肝心のカレーがぜんぜん来ない。よく見ると周りにいる客たちも、ぼくより先に席に着いていたはずの人たちのところにもカレーは来ていないので、これはつまりぼくが忘れられているわけではなくて基本的に今日のこの店の運営がこれくらいのスピードなのだろうと理解した。ラッシーには氷が入っていてそれがそろそろとけてくるだろうなというタイミングでようやくスープカレーが運ばれてきて、ぼくは多少下の方が水っぽくなったラッシーとともに普通にうまいスープカレーを食ったが、系列店と同じ辛さの番号を選んだはずなのに今回のほうが少し甘く感じた。スープの種類を変えたから当然だろうと思った。ただしぼくは今日はもうこのあと仕事をするわけでもないから多少汗だくになっても構わないと思っていつもより辛めの番号を選んだにもかかわらず思った辛さに達していなかったことに少しだけ気落ちした。ぼくがスープをサラサラ飲んでいる間、燃え殻さんはお便りを読んでいて、昨日風俗嬢をやめたというリスナーが「最後のお客さんが燃え殻さんだったらよかったのにと思いました」と書いているのをそのまま正直に読んで咽頭のあたりを小さくヒュンと鳴らしていた。ああスープカレー屋で聴くラジオとしてなんてぴったりなんだろうと思った。食い終わって店を出ようとすると周りの客達はまだチンタラチンタラとスープカレーを食っていて、ぼくもこれくらいのスピードで日曜日を過ごして何が悪いんだと、お会計をしてもらうポイントカードを今までのように車のゴミ箱に捨てることもなくダッシュボードに大事にしまって何が悪いんだと、エンジンをかけて家に帰りながらこのあと十二国記の続きでも読みつつ途中で寝落ちして何が悪いんだと、そうやって次々と小さな不良行為に自罰的な評価をくだしながら、自分が悪びれることで暮らしを存続させていることにも少々驚き、数多くの言い訳をストレスのかわりに心の上にかぶせて、それでかろうじて心の中の炎が消えないように世界の風から守ろうとして必死だった。

2023年3月28日火曜日

病理の話(760) パターン認識と統計に基づいた仕事

要は、AIでいけるやんけ、という話である。


細胞の形を見て、正常の細胞と見比べて、似ているか似ていないか、似ていないとしたらそれはどれくらいかけ離れているものなのかを考える作業を、病理医は「異型を判断する」と呼んでいる。ここでいきなりの専門用語だが、びびる必要はない。異型すなわち異なりの型とは、どれだけ正常の細胞からかけ離れているかを度合いで表すということだ。どれだけ似てますか、似ていませんか、それだけの話だ。


病理医が「これは異常な細胞だな」と判断したあとは、過去に報告されている(教科書などに書いてある)病変と見比べて、またも似ているか似ていないかを考える。正常からのかけ離れを評価しつつ、過去に名前のついた病気と似たところを比べてもいるわけだ。しょっちゅう「似ている、似ていない」ばかりやっている。

これを俗にパターン認識と呼ぶ。


話は突然変わるが、「クイズ王」がやっていることを思い浮かべてほしい。彼らは膨大な知識を集めて覚えているように見えるが、単に頭の中に知識を詰めこむだけでなく、クイズという形式で勝つための訓練もやっている。どういうフレーズで問題文が読み上げられたらどういう質問がされがちか、どういう順番で条件が提示されたらどこで早押しが可能になるのか、といった、「出題のパターン」をいくつもストックしておき、新たに耳に入ってくる問題がそのどれと似ているか似ていないか、という選別を行うことで、単に物知りなだけではなく、それらを人よりも早く気づいて早く答えるという「競技性」に高めていく。我々はそういう姿を見て「すげーな、人間業じゃねーな」と感じて喜ぶわけである。


で、この、パターン認識によって複雑な認識を上手に処理していくというのは人間だけでなくコンピュータが得意とするところだ。知識をたくさん記憶できることよりも、無数のパターンの中からどれに近いかと探り当てる、いわゆる「ひらめき」的な部分でこそ機械は本領を発揮する。

なんでその答えがそのスピードで出てくるんだよ、と我々はクイズ王に驚く。しかし、「なんでこの答えがこのスピードで表示できるんだよ」とPC相手にびっくりする人は最近はほとんどいないのではないか。




さて、病理医が細胞を良性だ悪性だと判断するとき、その根拠が「過去に教科書に書いてあるから」、「昔の病理医がこういうパターンだと悪性だと言ったから」だと、少々さみしい。研修中や若いうちはそれでもいいかもしれないが、そもそも昔の人が見つけたことが今の医学においても成り立つとは言えないので注意が必要だ。

たとえば、昔は今よりも喫煙率が高かったから、肺がんのタイプも「タバコによって引き起こされるがん」の率が高かったのだけれど、最近すこしずつ喫煙者が減って副流煙に触れる機会も少なくなっているから、あと20年くらいすると、タバコ関連のがんはたぶんかなり減るだろう。一方で、肺がんの原因はタバコだけではないので、これからは今以上に「タバコと関係ないタイプのがん」が増えることになる。

あるいは、ピロリ菌のことを考えてみよう。日本で発生する胃炎の多くはピロリ菌の感染と関係がある。しかし、上水道が完備されたことなど複数の原因で、最近の特に若い人の中でピロリ菌の感染率はかなり減少している。では胃炎も激減したかというと、減ったといえばかなり減ったのだが、たとえば痛み止めなどの薬を長期的に飲むことによって生じる別の胃炎なんてものもあるとわかってきた(薬の種類による)。

細胞のかたちがどうだとか、良悪がどうだといった基準は別に時代が変わろうとさほど変わらない……と思われがちだが、じつはそうでもない。人間を取り巻く環境が時代と共に変わることで、「正常」も「異常」もさまがわりする。となると、「昔のエラい病理医が言いました」だけに判断基準をおいかぶせてしまうのはちょっと危険である。


そこで、病理医は、常に「自分がこの細胞はこうだと判断する基準」について考えていなければならない。はっきりした根拠を常に考えておく。その根拠として一番使い勝手がいいのは何かというと、「統計」である。

この細胞が体にある人を「数年黙って見ている」と、高い確率で症状が出るとか、命に危険が及ぶ。そういうことが「統計」の結果でわかっている場合に、(まだ症状が出ていなくて、命に危険がないとしても)ああ、この細胞を見たらもう治療をはじめよう、と、あたかも未来予測をするかのように判断することができる。

根拠として「統計」ほど強いものはないのだ。



話はまたも変わるが、「クイズ王」がやっていることを思い浮かべてほしい。彼らは膨大な知識を集めて覚えているように見えるが、単に頭の中に知識を詰めこむだけでなく、クイズという形式で勝つための訓練もやっている。どういうフレーズで問題文が読み上げられたらどういう質問がされがちか、どういう順番で条件が提示されたらどこで早押しが可能になるのか、といった、「出題における確率」をいくつもストックしておき、新たに耳に入ってくる問題が確率的にどういう答えに結びつきがちか、という感覚を研ぎ澄ませることで、単に物知りなだけではなく、それらを人よりも早く気づいて早く答えるという「競技性」に高めていく。我々はそういう姿を見て「すげーな、人間業じゃねーな」と感じて喜ぶわけである。


で、この、統計によって未来予測を可能にするというのは人間だけでなくコンピュータが得意とするところだ。知識をたくさん記憶できることよりも、無数のデータを総合して統計的にこの先起こることを予測する、いわゆる「予言」的な部分でこそ機械は本領を発揮する。

なんでその問題文と答えがその段階で予測できるんだよ、と我々はクイズ王に驚く。しかし、「なんでこの問題文と答えがその段階で表示できるんだよ」とPC相手にびっくりする人は最近はほとんどいないのではないか。




と、並べてみると、「パターン認識と統計」のふたつでゴリゴリ仕事をしている限り、その仕事はAIにやらせりゃええやんけ、という話になる。

ではクイズ王はAIにとってかわられるのか? そんなわけはなくて、クイズ王というのはアスリートといっしょで「(脳を含めた)肉体をどれだけ鍛えているか」に価値があるのだ。フォークリフトを用いれば300キロのバーベルを上げられるからバーベル選手の存在に価値はないなんて誰も言わないだろう。

では病理医だとどうか? AIにもできる仕事だけど人間がそれをやるから尊敬できていいんだ、みたいなことを、人びとはおそらく言わない。みんな、別に、病理医を尊敬したいんじゃなくて、病気を早く診断して早く治療をしてほしいだけなのだから。したがって、病理医はクイズ王よりも生き残りに必死になる必要がある。……もし、病理医の仕事が「パターン認識と統計を駆使する」だけのことならば。



実際には、病理医の仕事というのは、細胞が何と似ているかという(パターン認識による)現状把握と、その細胞が出たら将来どうなりがちかという(統計による)未来予測だけではない。病理医は常に、病気のメカニズムを解明し、新たな診断や治療の可能性がないかということを、ほかの医者を引っ張る場所で率先して考えている。「まだパターンがわかっていない」病気や、「まだ統計解析に必要なだけの数が集まっていない」病気を前に、このような細胞変化が出るということはいったい何が起こっているのかと、他分野と共同しながら仮説を形成し、推論を実地で検証する、研究者的な仕事が根幹にある。

病理医の場合、日常的にタスクとして行っているパターン認識や統計学的処理の部分をAIにやってもらうことはむしろ「研究にそそぐ情熱をより多く使える」ということになる。AIが、「すでにわかっている部分を用いて」診断をやってくれるというならそれに越したことはない。未解明の部分を切り開いていくほうに全力を出せる、最高ではないかと思う。



そして、かつてまだ世間のAIに対する認識が甘かったときに、多くの内科系医師や外科系医師が「AIによって放射線科医や病理医の仕事はなくなるよな」みたいなことをよく口にしていたのだけれど、彼らの仕事もじつは病理医と同じように、多くの部分でパターン認識と統計に裏打ちされている。それらがまさかAIに奪われるとは思っていなかったんだろうな、というところまでAIに持っていかれる。

では、AIに持っていかれた分の労働時間を使って、今度はどこに全力を出すのか? 病理医は長年そういうことを考えてきた。今のあきらかなAIブームでもあまり驚かずに、「ま、そのうちこうなるとはわかっていたし、ぼくらは大丈夫」と言えるだけの言葉をすでに揃えている。

一方、ほかの科の医師は、最近あまり病理医に向かって「将来仕事なくなるかもね」と言わなくなった。自分たちの仕事がどれだけ奪われるかを今になって実感しはじめ、病理医の世界に目を向けるほどの余裕がなくなってきたのではないかと思う。なあに、心配することはないですよ、その道、我々もすでに通ってきました。少なくとも我々は、コミュニケーションの分野や研究の分野で、つまりAIにはできない部分でこれからも活躍できそうだなという目算を持っています。あなたがたもそういう気分になるんじゃないかと思いますよ。ああ、「内視鏡やカテーテル、外科手術がある限り大丈夫」とか言っている人はあぶないです。そういう手先の仕事については、AIがアシストすることで医師免許の必要性が薄まりますから、アイデンティティを揺るがされて落ち着かない日々を過ごすことになると思いますけれど……。

2023年3月27日月曜日

近距離専用トゥンク

バイトの医者が来たり来なかったり、短期雇用の医者がCPCを放り出して立ち去ったりする昨今、人に迷惑をかけずに暮らし続けることの難しさを考える機会が多い。かくいうぼくはこれまで多くの人に尻拭いをしてもらいながら、そのことをカラッと忘れて「自分はよく努力したなあ」とか「乗り切った俺えらい」などとポジティブに生活してきたので、この問題にかんする自分ごと感も他人事感も両方けっこうある。

誰もが自分の重心を機転として、そこからの距離に応じて想像力を発揮している。目安として、重心からの距離が50cmを超えるとがくんとイマジネーションが弱くなる。まあ50cmというのはだいたいなのであまり厳密に言うものではないが、ぼくに限らず多くの人は手の爪より足の爪を切るのを忘れがちだし、ワイシャツに比べてチノパンは使い回しがちだし、顔面や手のスキンケアに比べると足のカカトは相対的に適当だと思う。

さらに重心からの距離が3メートルを超えた物体に対してはまるで想像がはたらかないものである。隣の部屋の住人から壁ドンされたときのことを思い出してみればよい。車を運転中、信号が赤から青に変わったときに前の車が止まったままで2秒ほど経過するともうクラクションを鳴らしたくなる人もいるだろう。

何キロ、何十キロ、何百キロも離れたところにだって人はいるのだが、いなくても自分の暮らしには特に影響がないと思えてならない。北海道の東で地震があっても東京のタイムラインはほとんど反応しない。ジョン・レノンもじつは言うほどイマジンしてなかったんじゃないかと思う。数千キロ先の他人が50cm以内でうろちょろしているSNSではそこのところが狂っている。想像力の範囲外の人が、ガワだけの状態で至近距離に突然出てくるから、こちらとしても、「ああ近い近い。想像できる」なんて勘違い。けど本当はできない。相手のことは一切わからないし、相手の言葉の裏にある前提だって共有できない。なのに「こいつのことを想像するにとんでもないやつだな」なんて勝手に話を進めてしまう。これはバグである。

そういうバグを「仕様」と言い張って、開き直って暮らしているのが令和のぼくたちだ。うちの職場に迷惑をかけて去っていった人たちがぼくからどんな迷惑を被ったのか、ぼくには想像が及ばないけれどそこには必ずなんらかの迷惑が存在したはずなのだ。理屈でわかるのだが感情がその先をひらいてくれない。明かりが射さない。50 cmを超えると光が届かない。誰もがエルキュール・ポワロや古畑任三郎みたいに、単発スポットライトの下に佇んで腕を組んだり指をさしたりしている。かつて、MOTHER3のエンディングで画面が暗転したとき、暗闇の中にプレイヤーである自分の顔が写り込んだ瞬間にぼくはゲームを卒業したと感じた。しかしそれは間違いなく人生という虚構の中にぼくが日夜ひたりつづけていることを一瞬だけバシャリと可視化する、ミルククラウンの滴のひとつぶであったのだと思う。

2023年3月24日金曜日

病理の話(759) つまらーんと思っていた講義の思い出

大学で医学を学んだとき、「うわあ、医学だなあ! 今ぼくは医学を勉強しているんだなあ!」と実感できた科目といえば、真っ先に勉強した解剖学である。

これはやっぱり小学校とか中学校に置いてあった骨格標本の影響だろうか。皮膚をとりはずした人体に筋肉や骨や臓器がいっぱい詰めこまれているという漠然としたイメージを、あらためて「骨学(ホネガクではなくコツガク)」から順番に学んでいく過程は、いかにも「医学の階段の一段目」という感じがした。


ただしその次にやってきた「生理学」はとっつきづらかった。生理学というネーミングは一瞬女性の生理の話かと思ってどぎまぎしたが(ここでどぎまぎするというのも性教育の失敗のひとつではあるが)、生理学とは「生きる理(ことわり)の学問」であって、女性の月経も含まれるけれどそれだけには留まらず、正常の人体がどうやって稼働しているかを学ぶのだという。おお、ならば、「科学の子」にとってはご褒美みたいな時間じゃん、たのしみー! と期待してはじまった講義は、残念ながらサーカディアンリズム(概日リズム)がどうとかタンパク質とタンパク質が相互作用でどうとかミトコンドリアがどうとかいう話ばかりでがっくりしてしまった。試験も覚えることが多く難しかった。

生理学は人間の生きている理(ことわり)を探るといいつつ、解析するにあたって人体をどこまでも拡大して調べるタイプの学問である。日常ぼくらが目にする「生きている人間」、もしくは理科室の骨格標本と、生理学におけるタンパク質動態とはスケールの隔たりが激しく、いきなり遠いところにポンと置いてきぼりにされるような感覚があった。試験や進級というしばりがなければまじめに勉強し続ける気もしなかったろう。ああ、専門科目にこういうとっつきづらさがあるから、医療系の大学以外で医学を学ぶのは大変なんだ、つまりぼくらの「役得」みたいなものはこの生理学以降にあるのだろうなと変に納得したりもした。


そして病理学である。これもまた実につまらなかった。学生時代のぼくにとって、解剖学(おもしろい)、組織学(そうでもない)、生化学(きつい)や生理学(つらい)などをひととおり学んだあとに、「いよいよ病気の勉強をできるんだ、この先に医者が見えてくるのだ」とワクワクしかないネーミングでやってくる「病理学」。とうぜんケガとかがんとか重病の類いを紐解いていくに違いないと予想する。しかしそこではじまる話が「炎症」、「遺伝子異常」、「代謝異常」、「循環動態異常」などの基礎理論で、またも肩すかしなのだ。

具体的な病名を取り上げてくれたらもうすこしわかりやすいはずなのに、と、授業の構成をうらみこそすれ、病理学に感動できるところがあるとは思えなかったし、病理学者に対する共感の念も唯一の例外(※)を除いて全く湧かなかった。

(※)亡くなった長嶋和郎元教授の「伝説の病理学講義」だけがそこを打ち破ったのだが、この話はブログでも何度も書いたし、『病理医ヤンデルの医者・病院・病気のリアルな話』(だいわ文庫)などでも書いているのでここでは省略


いわゆる「基礎医学」(生理学も病理学もここに含まれる)のつらさである。

その後学ぶ「臨床医学」(内科学とか整形外科学といった、いわゆる一般的に想像できるタイプの医学)では、基礎医学の知識を用いて具体的な病気についての勉強をする。だから下準備として医学部の前半にしっかりと基礎、専門用語、概念、考え方を学んでおく。そんなことは講師陣に言われずとも学生ながらしっかり察していたつもりだ。大学受験で微分積分をバリバリこなすために、小学校で足し算やかけ算を習い、中学校で因数分解をやってきた経験があるからわかるのだ。「あれってなんの役に立つの?」が後ほど大きな応用となって戻ってくるというのは医学部生にとっても理解できる話だった。したがって、生理学や病理学がクソ学問だなんて全く思っていなかったし、ぜったい将来役に立つだろうとわかっていた。しかしそれがクソつまらないというのもまた偽らない本心だった。後で役に立つからといって気軽に愛せない。


それから20年以上の月日が経ち、今のぼくの目で病理学のカリキュラムを見ると、本当によく計算されていて「この順番以外で医学を学ぶのは無理だろう」という感覚すらある。わかりやすいところから、インパクトのある順番に学んでも絶対に医学という高山は登坂できない。三合目までのハイキングでいいなら、有名な病気をあちこちつまみ食いして学ぶだけである程度の知識はつくのだ、しかし八合目を超えるためのアタックをしようと思うなら最初にこれくらいの下準備を(全部が学生の頭に入るわけがないとわかっていても)目の前に広げておくしかないとわかる。

そして、今のぼくが「わかる」からといってそれが真理ではないんだよなということを、まだかろうじて想像する余力がある年齢でもあるのだ、今のぼくは。たぶんもうちょっと時間が経つと、「しのごの言ってないでこれを全部暗記できたらその先がめちゃくちゃ楽になるんだから、ダマされたと思ってがんばりなさい」と言うタイプの講師になるだろう。でも、うん、そういうことではないのだ。カリキュラムはこれ以外にどうしようもないにしろ、まだまだ教え方の可能性はあるはずで、Robbins Pathologic Basis of Disease(病理学の有名な教科書)に書いてある順番だから合っている、みたいな教え方では必ず多くの学生が振り落とされ、結果、10年後とか20年後に、「病理学の知識が中途半端な状態のために現場で困っている医療者」が大量発生することになるのだろう。

2023年3月23日木曜日

人を呪わば穴二つ

こんなぼくにはもちろん後ろ暗い部分がある。たとえばどういうところかというと、何年も前にTwitterでぼくのことを揶揄したアカウントをたまに思い出してホームを見に行き、あいかわらずあちこちの「敵」と戦うツイートばかりしてるなとか、プライベートに関する愚痴がツイートに漏れ出ているなとか、あいかわらず友だちは増えてないんだろうなといったふうに、「同情を投げかける」ところだ。もちろん直接話しかけるわけではない。脳内で「かわいそうに」と蔑むのである。


自分のことを悪く言った人に後日ひそかに同情するというのはいかにも性格の悪い行為だと自分でもわかっている。だからことさらツイートすることはないが、じつは半年に1度くらいそういうことをやっていて、常習犯である。やるときはまとめてやる。仕事が一段落した夜7時半くらいに、ツイッターからログアウトした状態で記憶をたよりにいくつかのアカウント名を検索して、「いまどうしてる?」


アカウントがなくなっていることもある。アカウント名が変わったくらいだと、Googleを使えばなんとか見つけることができる。いずれにせよたぶんつらいことがあったんだろうなと同情する。炎上の真っ最中なんてこともざらにある。そのうち沈静化するからがんばりなと同情する。


同情とは同じ情と書くけれど、実際にはぜんぜん漢字と合わないニュアンスをいっぱい持っていて、これはつまり「かわいそうに……」か、「かわいそうに笑」のどちらかであるからぜんぜん「同じ情」ではない。むしろ違情、もしくは異情と書くべきである。


さらにいえば、その人自身はおそらく、誰かに同情される立場だとはつゆほども思っていない。ケンカばかりして辛いと思っていないし、炎上がいやだと思っていない。ケンカは聖戦、炎上は商売のタネであり、支持者からは「今日もご活躍ですね」と、中立の人からは「勇壮に戦っている」と、アンチからは「調子に乗ってるからぶっつぶしたい(けれどピンピンしている)」と思われている。

そういう人だからこそぼくが(全く本人に知らせることなく)「かわいそうに……」「かわいそうにw」と同情する。この構造はいかにも矮小で下劣だ。だから人前ではやらない。


ぼくと同じことをどの人間もやっているかというとそんなことは全くないと思うが、でも、けっこうな数の人がやっていることもまた事実ではあると思う。ただし互いに「あなたもやりましたか、ぼくもやっています」と明かし合うようなことはない。下品だからだ。性格が悪い、矮小で下劣で下品、我ながらここまでこき下ろすほどのことなのに、今でもやめられないのは、ぼくが自分に対して付けられた傷をいつまでも眺めるタイプの心性の持ち主だからであるし、いずれにせよ他人に認められたいとかいずれ報われたいといった欲求とも関係がなく、開き直るわけではないのだがこれはタバコへの依存のようなもので、「やめたほうがいいのに」と眉をひそめられていてもなかなか習慣から抜け出せない。


タバコや酒の依存に対して、依存症の人びとが集まって車座になってお互いの気持ちを述べ合うというオープンダイアローグ的なことをやると、ときに依存症脱却のきっかけになったりもするという。しかしこの話題に関して誰かと語り合いたいとは全く思わなかったので、ぼくはこうして自分の心性を見つめ直して文章化することで行為のキモさと自分自身に対する有害さを可視化することにした。


これによって、もう、過去にいやな思いをさせられた人のことなんか忘れてしまったほうがいいんだよな、とあらためて認識することができた。ぼくはこの記事をきっかけとして、もう二度と、あれこれの人びとを検索欄に入れて現況をチェックするようなことはしない。そういう人たちとは全く関係のないところで明るく楽しく暮らしていく。

……と、「しょうもない人たちから断絶して今は幸せ」と書くこと自体も、レイヤーは違えど復讐のひとつの様式であり、蔑みが別の形になって表れているだけなのは言うまでもない。


こんなぼくにはもちろん後ろ暗い部分がある。傷つけられた人に対する執念が形をかえてずっと残り続けており、それをどう落ち着かせようと思っても、あるいは気にしないで無視してしまおうと思っても、何をやっても揶揄になってしまうということだ。人前で話そうとは思わないし、解決する方法も思い付かない。ただ、これまで自分が傷つけてきた人も、同じようにぼくをどこかで蔑んでいる、そのことを歯噛みしながら受け入れるしかないのだということだけはスッと思い付いて腑に落ちる。