2023年4月28日金曜日

DIPが腱鞘炎

AIの話してる人全般に飽きちゃった。自分もけっこう話してたのに。でもなんか、その、これでもかこれでもかと「AIを使った未来」の話ばっかりしてる人は、うーん、その……みんな瞳孔開いてる感じがして……怖い。もうちょっと現実見たら? AIを使わないクリエイターは滅びる、みたいなこと言ってなんか意味あんの? 世の中に圧を与える立場でいられることに酔ってるんじゃないの、それ?

まあ他人のことはいいや。ぼくはAI関係の記事から少しずつ距離をおくようになって、まあでも読まないわけにはいかないんだけどそれはきっと首相動静とかダウ平均株価くらいにしか興味をひかないものになりつつある。では代わりに何を考えているかっていうと、もちろん、脳のことをずっと考えている。ウフフ、AIと脳は一緒だね。待て、違うよぜんぜん違う。脳も機械もほとんどいっしょなんていう意見をたまに見るけれど(カズレーザーあたりがすぐ言いそう)、脳にはグリアや液性因子による調節があるし、シナプスはそのままに神経伝達物質の種類を変えるなんていう荒技だってあるから、単純なゼロイチのオンオフシグナルよりももう少しアナログな運用をされているのでコンピュータとは微妙に異なるシステムのはずだと思っている。コンピュータの性能をまっすぐ上げていっても最終的に脳と同じものにはならないだろうっていう予感があるのだ。そこはだんだんずれていくんだと思う。肉体があるかないかが重要だっていう人もいるけどそこが本質なんじゃなくて、肉体という膨大な量のセンサーの閾値を常時アナログにコントロールしているバックグラウンドの負荷のでかさに本質があるのではないか。だったら、コンピュータにも大量のセンサーを取り付けてフィードバック機構を設けつつ、アナログな調整もいれればいいじゃんって? うーんそういう発想はたぶん20年以上前に「ファジー理論」あたりでけっこうやりつくしたんじゃないかなあ。今もやってるのかもしれないけれど、あまりよく知らない。そもそも、コンピュータと脳を同じにする必要がないので、人間の知能を再現したい一部の学者以外にはあまり興味を持たれていないようにも思う(それでも十分いっぱいいるかなあ)。それこそ、人の脳って決して完全なものではないし、コンピュータは狭い領域であればもっとずっと上のほうを目指すことができる、目指す方向性が違うんだから無理に寄せてこなくてもねえ。

ところで、哲学者がたまにAIのことを考えているようなんだけど、いまのところ、AIに対して正面から切り込んだ哲学者はあんまりおもしろいことを言えていない気がする。哲学者はほとんどの業種の人より確実に頭がよくて、たとえば医者あたりと比べるともう確実に優秀で、雲泥の差っていうくらいに論理的思考力が高くて、とうの医者であるぼくなんかはへこむしかないんだけど、でも、AIや医学に関する哲学者のしゃべりはごくわずかな例外を除いて「先行研究に対する勉強が足りなすぎ」と思うことばかりだ。なんか土俵にまるで立てていないように思う。それはまあしょうがないことなんだろうなと、今ならわかる。学問の種別を問わず、「すでにそれに取り組んできた人たちのあゆみ」を無視して新しいことを言うのは本当に大変なことなのだろう。学問の中心部で蠢いているのは試行錯誤の歴史なのだ。センスと才能で組み立てられない理論というものはあるんだなということをずっと考え続けている。


改行もしないで詰め詰めの文章を書いているけれど最近のぼくは実生活でもこんな感じらしい。同じ職場にやってきたよう先輩に指摘された。研修医などに教えるときの情報量が多すぎるのだそうだ。参ったなーもっと教え上手な人に来てもらわないと、当科では「普通の人」が育たなくなってしまう。知ったことではない。異常な人しか育てたくない。このままにします。

2023年4月27日木曜日

病理の話(771) アンクラシファイドファイヤ

「山火事」の映像を見たことがあるだろうか。あるいはティッシュを燃やすとかでもいい(サイズ感がずいぶん違うけれど)。

炎が燃え広がっていくにつれて、灰になった領域がじわじわと面積を広げていく。

ろうそくや焚き火のように、一箇所に燃やすべきものを集めて付けた火と、山火事や焼き畑のような「移動しながら燃えていく火」では何かがちがう。焼き畑では、駅伝のゴールテープのような細い幅をもった面の部分が炎につつまれて、そのテープ状の炎が外側に向かってじわじわと移動していく、その過程には「塗りつぶし感」がある。そのつど燃料を供給され、同じところで煌々と燃え続ける火とはニュアンスが異なると思う。

キャンプファイヤを見ているとみんな「落ち着く」という。でも、焼き畑だとなぜか焦燥感をかきたてられる。これは単に火に対する根源的な恐怖があるからとかではなくて、決まったところが燃えていない、この先どこがどう燃えるかわからない、不安定で未定なイメージによるのではないか。

そして炎が通り過ぎていくと一気に「静寂」となる。メリハリが利いている。ティッシュを燃やした場合は火が通り過ぎたあとには空隙しか残らないが、焼き畑の場合は、焼けた雑草が灰となって折り重なって、色を失って、凪ぐ。安定する。「決着した」、と感じる。




話は一気に変わって、ここからは医療の話である。

人は具合が悪くなると病院に行く。あるいは、調子はさほど悪くなくても、検査などで病院に行ったほうがいいよとすすめられることもある。いろいろな理由で病院を訪れたあと、何をするかというと、自分の中に生じている不具合を医者に「名付け」てもらう。これを診断という。

病気に名前がつくことで、その名前に応じた治療がわかる。A病ならばBという薬が効く、C病ならばDという手術が効果的であるというように、診断と治療とのあいだには対応がある。

だから診断はビシッと決まるべきだ。

しかし、この、「診断」というものは、じつは確定した概念とは限らない。どこかの分厚い教科書に事実として書き込んであるとか、すごい権威を持った医者が「こういうときはA病としなさい」と定義しているわけではないのだ。

医学は長年研究されているから、たとえば、「がん」のような病気の診断にはある程度決まったやり方がある。CTや内視鏡、あるいは病理によってこのような形が見えたら「○○がん」と診断する、という流れはわりと安定している。

しかし、「がん」になる前の病態、いわゆる「前がん病変」と呼ばれるものは、まだまだ研究が行われている最中だ。体の中にどれくらいの異常があれば、それを「がんの芽」と呼んでいいかに関しては、まだ決まった説がないことも多い。

ぼくはこういう、診断の根拠が決まっていないジャンルを目にすると、ふと、焼き畑のイメージを思い浮かべる。この火がどこまでを灰にするのか、燃え切った灰が肥料になることで、次の畑の肥料として使えるようになるのがどこまでなのか、面積が決まっていない感じ。

真ん中は、すっかり燃え終わってだいぶ経つ。そこは「安定」している。がん研究の中心部には「すでにわかっていること」が多く存在するということ。

しかし、へりの部分ではまだまだ炎がぱちぱち言っている。今燃えているところはいずれ灰になるだろう、つまり今「激論」が行われている領域はそのうち安定する。がん研究の最先端の成果もいつかおそらく安定するのだ。研究は必ず前に進むのだから。

しかし、これからどちらに火が及んでいくかは完全に未決である。ほんとうはもっとあっちの方にも畑を(火を)広げて行きたいと思っても、うまく火がつかないこともある。研究の火はどんどん広げなければならない。それは黙って見ているだけでは思い通りにならないことでもある。

「診断」は非常に大事な行為であり、先人達の研究によって多くのことがわかるようになってきているが、フィールド全体を見渡すと、「未決」の領域がまだまだたくさんある。おそらくいつまでもあるだろう。



病理診断でたまに用いられる言葉に、Unclassified lesion(アンクラシファイド・リージョン)というのがある。日本語になおすと、「未分類の領域」。「がん」ほどには診断学が確定しておらず、なんと名前を付けてよいかまだ決まっていない病気、くらいの意味だ。

この先の研究でどちらに転ぶかまだわからない、そんな病変。

そこに「火を付けて」、将来の役に立てることができるのか、それとも火が途中で消えてしまうのかは、ひとえに、心に炎を宿した病理医がその領域に足を踏み込むか否かにかかっている。

2023年4月26日水曜日

肝銘を受ける

出張先で爪切りを買った。キータッチのときに爪が引っかかるのがいやで、普段からこまめに切っている。爪のメンテナンスについては、元をたどると子どもの頃に呼んだ「エルマー」か何かのなかに、「指というのはもっとも相手に近づく場所なのだからきれいにしておかなければいけない」という一文を見つけたことが大きい。それ以来、なるべく爪を伸ばさず、人を傷つけないようにしようと肝に銘じている。


「肝に銘じる」んだなあ。脳とか心に銘じるわけではないのだ。なぜ肝なんだろう。腹部を損傷して死亡したときにまろび出てくるからか? 脳は頭蓋骨に、心臓は肋骨に覆われていてうまく出てこないから……。いや、肝臓だって靱帯に支えられているからそう簡単には出てこないはずである。

「胴体を袈裟斬りにしたときによく見えるから」みたいなざんこくな理由ではなくてもう少ししっくりくる理由があるはずなのだ。なぜ肝なのか。肝心、とか、肝腎、とか、あるいはキモなどと呼ばれるが、昔の人からするとやはり肝臓というのは「心が入っているわけではないのだがなんかめちゃくちゃ重要な場所なのだろう」ということを思わせる臓器だったわけだ。鉄分の含有量が大きくてしっかり詰まっているから、いかにも何か強い仕事をしている臓器に見えたということだろうか。それとも、馬や豚などのキモを焼いて食べると滋養によいということが薬膳的に知られていたからなのだろうか。それにしても「銘じる」とはどういうことか? この言葉はほかには墓碑銘とか刀剣に名前を彫るという意味でしか目にする機会がない。肝臓の表面に何かを刻印する? そんなことがイメージ的にあり得るのだろうか?


逆に考えると体の中でひとつ「何かの銘を刻む」臓器を探すとしたらたしかに肝臓が一番よいのかもしれない。腎臓は後腹膜に包まれていて見るのがむずかしいし、胃や腸はふにゃふにゃしていて何かを書き込める気がしない。脾臓も表面はわりとシワシワだ。肝臓だけがつるっとして、つやっとして、彫刻刀でなにかを彫り入れても大丈夫そうなイメージがあるにはある。


もしくは……肝臓にはときどき肋骨の痕がへこんで残ることがある。コルセット・リバーと言って、コルセットのようなもので長く体を締め付けていた人、あるいはそもそも痩せ型の人は、肝臓が肋骨に長時間押さえつけられることで表面に溝状のくぼみができてしまうのだ(健康に悪影響はない)。あるいはそういうのを目にした人が、「肝臓にはなにか、人生が刻印されているのだなあ」と感じた可能性もある。


と、ここまで書いて、そういえばググってないなと思っていくつか調べてみたけれどパシッとはまるエピソードなどは見られなかった。唯一、「古今集(?)には銘肝という言葉がある」というくだりを見つけた。「此琵琶の秘曲を銘肝し侍る」……でもこれでもう一度ググってもうまく出てこない。真偽は不明である。


琵琶をかき抱いて弾くとき、琵琶はちょうど肝臓の前にやってくる。ガリガリに老いた僧が琵琶をつま弾きながら衰弱して死んだあと、朽ち果てていくむくろを見た人は肝臓のあたりに何かが刻まれていると想像したのだろうか。


2023年4月25日火曜日

病理の話(770) マンガ家がカメラを教わるのにも近いかと

ぼくの勤める「病理診断科」には、さまざまな研修医が勉強しにやってくる。でも、その多くは、病理医を目指していない。内科や外科など、将来の道は別にあるのだが、研修の過程で病理が役に立つということをわかっていて、あるいは将来、病理医とうまく協力しながら自分の仕事をするために、あえて研修の時期に病理にやってくるのである。


イメージとしては……。プロのサッカー選手になりたい人が、ある時期にストレッチやマッサージのプロに弟子入りする、みたいな感じだろうか。将来、自分の手で人をもみほぐしたいわけではないが、サッカーにおいて傷めやすい筋肉や筋のことを学んだり、より効果的なセルフストレッチのやり方を学んだりできる。それはきっとサッカーを続けていく上で役に立つだろう。将来病理医になるつもりがない人が、病理診断を学ぶというのも、これに近い気がする。


さて、将来病理医になりたいと思ってぼくのところにやってくる初期研修医(医者になって1、2年目の人)は、たとえば3か月とか半年といった、ある程度長いスパンで勉強をすることが多い。人によっては2年の初期研修のうち10か月程度を病理に捧げるツワモノもいるが、逆にほかの領域の勉強がしにくくなるので、まあ平均的には6,7か月くらいが多いと思う。

一方で、消化器内科や血液内科、皮膚科、産婦人科など、病理医以外の科に進みたい人は、ここではせいぜい1か月くらいしか勉強しない。ぼくはそれでいいと思っている。サッカー選手が理学療法士に2年も弟子入りするのはちょっと長いなと思うだろう。本職にするわけではないのだから。そして、1か月で効果的な勉強をするにあたって、何が大事かというと……ぶっちゃけ……「ぼく」が大事だ。


「ぼく」が大事だ(2回言いました)。


より正確にいえば、「指導医の下準備」が欠かせない。たとえば皮膚科医になりたい人が病理に来たら、あらかじめ、「こういう皮膚病の標本を先に見ておけば将来役に立つだろう」というのをぼくが把握しておく必要がある。なにせ1か月しかないから、数年に一度しかお目にかからないような病気に出会うことはめったにない。でも医学の勉強というのは出会う頻度の高い順に学べばいいというものではないのだ。「たまにしか遭遇しないけれど、絶対に知っておいたほうがいい病気」というのがある。そこを指導医が導かないと、自学自習で1か月ではどうにもならない。


たとえば今、ぼくのもとには「来年から血液内科医を目指したい研修医」が来ている。研修の初日に、パソコンで過去の症例を検索する方法を教え、プレパラートの出し方、教科書の使い方を教えた。これで基本的には、自分で興味のある病気について検索をし、プレパラートを出して勉強することができる。ただし、どのような順番で血液の病気を勉強すべきかについては、ある程度ぼくが指示している。ここがたぶんすごく大事なんだと思う。

もっとも順番は強制ではない。これまでの研修の間に自分が担当した症例などに興味があれば、その都度わきみちに逸れてもらうことも自由だ。

毎日、ある程度の頻度でぼくと一緒にプレパラートを見て、ああでもないこうでもないと細胞の見方や臨床のありようについて議論をしていくうち、最初の1週間ではただ言われたままに顕微鏡を覗いていた研修医が、次第に自分の興味をひろげて疑問をもち、ぼくにたずねてきたりするようになる。


こういうことを何年かやっていて最近思うのだが、将来病理医になるつもりがない人に病理を教えるのは、ぼくという病理医にとってめちゃくちゃ勉強になる。病理診断科の立場から見ているプレパラートを、臨床の立場で「並べ替えて」見ていくうちに、疾患同士のつながりが新たに見えてきたり、これまで言語化しきっていなかった病理用語が脳にすっと入ってきたりする。よく言われていることだが、教えることは自分のためにもなる。しかも「病理医を育てればそれだけで十分」ではないようだ。病理にはちょっとしか興味がない、普通の医者になりたいと思っている人に病理を教えることで、確実に何かのスイッチが入りどこかがブーストする。ふしぎなもんだよな。

2023年4月24日月曜日

必死でやってる人たちのために

チェックアウトの時間が正午であった。助かる。今日は午後のイベントに顔を出し、夜の飛行機で札幌に帰る予定で、午前中はなにもせずに休むことにした。とりあえず下のコンビニでジャンプを買ってくる。いったん履いたスラックスをあらためて脱いでベッドに横になる。呪術の設定が初見で頭に入ってくる人ってどれくらいいるんだろう。


病理学会で下関、そこから東京に移動して日本医学会総会の博覧会。土日を挟んでの4泊5日、こんなに職場を空けたのは主任部長になって以来はじめてのことだ。ウェブで確認できないアドレスのメールがおそらく溜まっているだろう。明日のことは明日考える。今は黙ってジャンプを読む。昨日買ってきたオーザックが口内炎を刺す。


医学会総会の広報を手伝ってくれたドクターの一人はこう言った。「医者たちが必死でやってるのを見ていると、なんとか助けてやらないとな、って思うんですよ」。見返りのない利他の理由をたずねると、「どうせ我々医者なんてものは、ひとりじゃ何もできない。もっとしんどい働き方をしている他科の医者、メディカルスタッフ、そういう人たちがおぜん立てした場所でかろうじて働かせてもらっているだけなわけです。そんな自分に対して引け目みたいなものが常にある。そして誰かが困っていそうだったらそこを助けにいく」


自分が「あっ、今、感じ入ったな、俺」と思ったとき、心がけていることがある。相手のセリフに応答する自分のセリフをなるべく減らすということ。勝手に要約しない。会話の流れを自分中心にしない。感動したならひたすら受け止める。NHKのインタビューがそういう形式になっていることが多い。相手が何かをしゃべったあと、アナウンサーやインタビュアーはうなずくばかりでコメントをつけ足さない。民放ではこういうやり方はまず見ない。インタビュー企画の場合、最後は必ず見目麗しいアナウンサーや視聴率を持っている芸人が一言よけいなことを言ってそのコーナーが終わるようになっている。ぼくはあれがうっすら下品だと感じるようになっている。


今回の宿は秋葉原にとった。昼飯を食おうと検索すると「昭和食堂」というのが出てきて、まあ近いからここでいいかと向かってみると店の外に行列ができている。並んでまで食おうと思わずきびすを返し、ホテルに戻る道すがら、居酒屋のランチ営業の看板を見つけてそこに入る。すぐに入れる。生姜焼き定食をご飯少なめで。野菜がだいぶたくさん盛られている。マヨネーズ要りませんと言っておけばよかったなと少し思う。あっという間に食う。居酒屋のランチが結局のところ安牌なんだよなという思いを新たにする。ホテルに戻ったらチェックアウトの時間を少し過ぎていた。従業員に詫びながらトランクを引く。これから信頼できる仲間たちが運営するイベント。マルキューブのオープンステージには俳優の宮地真緒さんが登壇する。ウィズニュースの水野編集長とNHKのフジマッツ。医者ふたり。それを見届けてから札幌に帰る。このイベントを単発で終わらせないためにはどうしたらいいかと頭をひねる。必死でやってくれている人たちのために何かできないだろうかということを意識してずっと考えていく。

2023年4月21日金曜日

病理の話(769) 語るように見る

病理医が顕微鏡で細胞をみて何をするかというと、それはもちろん(?)、「病理診断」をする。細胞の様子から病名をつけたり、その病気がどれだけ進行しているかをおしはかったりするのだ。

この説明はぼくも、いろんなところで何百回もやってきた。しかし、こないだふと、「そういえばぼくらは顕微鏡をみるときに診断以外のこともしているなあ」と思いついた。

たとえばぼくらがケガをすると、血が出て、かさぶたができて、傷口の部分に肉が再生して、最終的にかさぶたがはがれて「なおる」のだけれど、ケガが大きいとキズの部分が「ひきつれ」を起こすことがあるだろう。このひきつれた部分を顕微鏡で観察すると、線維とよばれるものが増えていることがわかる。ひきつれるなんて迷惑だ、と思うかもしれないが、人体にとってみれば、大きすぎる「ヒフの穴」は埋めるのが大変なので、周囲の肉を寄せて隙間を埋めることは目的にかなっている。

今の、「線維が増えている」というのは、何か病名をつけたわけではなくて、「そこで何が起こっているか」を説明したものだ。とても広い意味ではこれも病理診断に含んでもいいかもしれないけれど、病名Aとか病名Bといった「分類」とは違って、具体的に人体の細胞がどうはたらいているかを描写しているのである。

で、病理医はこの、「何が起こっているかを描写」する仕事をけっこうやっている。


たとえば我々は、昔ある部位に出血があったことを「痕跡」から見抜くことができる。血が出ると、赤血球の中に含まれているヘモグロビンというタンパク質が出血部に漏れ出すのだが、このヘモグロビンには鉄分が含まれており(だから貧血というと鉄のサプリを飲まされるわけだ)、鉄分は出血のあとで組織のあちこちに溜まる。したがって、顕微鏡で細胞を見ているときに、どこかに鉄成分が見つかったら昔そこには出血があったのだということがわかる。

さらに、鉄成分といっしょに新鮮な赤血球も見えたら何を考えるか?

「昔出血していた証拠がある」+「今まさに出血している(出血なう)」=くり返し出血するような病態が隠れている

ここまで考えると、少しずつ「病理診断」に近づく。なんらかの病気がひそんでいるのではないかということだからだ。




ツイッターの合言葉といえば「いまどうしてる?」であるが、病理医が顕微鏡で細胞をみるとき、そこから得られる情報というのは、「いまなにしてた?」であるし、「昔なにしてた?」でもある。我々が病理診断レポートに「病名」だけを書くのを仕事にしていたら、あるいはAIによって我々の仕事は減ったかもしれない。しかし、状態をしらべて過去に何が起こったかを予測し、主治医とコミュニケーションを取りながら病気のメカニズムを解明していくという過程において、AIができることはあまりにも無力だ。「組織所見から文章を生成できるんですよ」? いやいや……そんな「これまでの病理報告書に書かれていた内容の最大公約数」だけで人体の観察を終わらせていいと思ってるなら、それでいいんだけどさ、それって医学の進歩から背を向けるってことですよ。AIにはちゃんと仕事を与えるけれど、AIだけにまかせられるほど病理診断は狭い仕事ではない。



2023年4月20日木曜日

途上とうたかた

パソコンや車がちょっとずつ古い。ジャケットもパンツも少しずつヨレている。経年劣化の真っ最中。いずれ、いずれも、買い換える。それまでの間の、少し不安な、不安定な時期を、一番長く生きている。

整った身なり、十全な道具、なにもかも満たされた状態で生活することはまずない。仕事するときも、いつだって中古品や劣化品をそれとなくうまく使いこなしながらやりすごす。遊ぶときも寝るときも、めしを食うときもだ。それはあたかも、ぼくらが24時間満腹であることがないのと似ている。ご飯を食べた直後以外に腹が膨れきっていることはない。まだがまんできるか、もうペコペコか、そういう状態のほうが、1日の中では圧倒的に多い。



対外仕事をひとつ終えるたびに、「実績」と書いたエクセルファイルに、日付と場所と、講演や発表や論文のタイトルなどを書いてまとめている。どれもこれも、発表の当日まではずっと緊張していて、必死で取り組んできたものばかりで、世に出した瞬間に一瞬だけ満足して、その後は急速に、感情が空腹へと向かって突き進む。

「めしにしましょう」の中で、小林銅蟲の化身である青梅川おめがは、「原稿ってすごいですよね、完成以外の時間は全部未完成なんですよ」という意味のことを言った。ぼくはこれこそが真実だし人生だなと思ったのだ。満たされていない時間が99%。できあがった瞬間に一瞬だけ満たされて、また次の充足へ向かって「途上」をやっていく。



「鬼滅の刃」がジャンプで連載されている間、「これがいつか終わってしまうのが惜しいなあ」という気持ちがあった。「ちはやふる」も「阿・吽」にも同じ気持ちを感じた。今は「ワンピース」に対してそういう気持ちでいる。人におすすめするときに、連載中のマンガをすすめると、「終わったらまとめて読むよ」という人がいて、その感覚はぼく自身もとてもよくわかるのだけれど、「完結したマンガ」では味わえない類いの感動というのがある。「いつか終わるけどまだ終わっていない状態」のみによって刺激される報酬系がある。それはたとえば野球の試合を再放送で見る人がほとんどいないこととも似ているかもしれない、つまりは「同じ時間を生きる」ということの尊さなのだろう。しかし、一方で、ぼくらはつまるところ、最高の感動や最高の満足の「途中」ばかり消費していると言うこともできる。いつか○○するために、と目標を立ててえっちらおっちら道すがら、その途上で人生の99%を過ごしていることに、もう少し自覚的であったほうがいいのかもなと、今となっては……なんだかある程度のところにたどり着いてしまったのかもしれないと感じる日が増えた今日のぼくは思う。『これ描いて死ね』が連載している間にみんなも読んでおいたほうがいいと思うよ。