2023年9月29日金曜日

重さと遠さ

ぜんぜん別の場所から依頼された原稿のしめきりが、ぴったり同じ2024年3月29日であった。まだ半年あるから楽勝だと言いたいところだけれど、まるかぶりしたのでさすがにどうしたものかと頭を悩ませている。

でも、まあ、悩んでいることはいるんだけど、若いころとは悩みの深さが違うからそんなに大変でもないんだよな、とも思う。

言葉にすると「どうしたもんかなあ」の9文字だ。

脳内に浮かぶフレーズ自体は、若いころも今もあまり変わらない。

ただし、若い頃の「どうしたもんかなあ」は、「けもの道すらないジャングルの中でどちらに一歩目を踏み出すか」というニュアンスだったのに対し、今の「どうしたもんかなあ」は「標高も登山道もわかっている山を目の前に、あらゆる登山グッズも身につけた状態で、そろそろ歩き始めておけばまず間違いなく山は登れるけれど、足腰に疲れが出ていてあまり動き出したくない」という意味になっている。

冷静にくらべてみると今はずいぶんと楽だ。

若い頃の不全感のほうがきつかった。道が見えないし、見えても力が足りない、アイテムが足りない、情報が足りない。

かつてのことを思うと、今のぼくが「悩んでいる」と口にするのは、なんかちょっと軽いなあと感じる。


しかしなんというか、軽重でいうと軽い悩みが、遠近でいうとより今のほうが自分の心に近いところに悩みのコアがある。

むかしは、自分の力では持ち上げられないような重さの課題を、遠巻きにして眺め、薄目でじとっと見据えたりしていた。あんなのどうやっても動かせないじゃないか。こんなの何から手をつけたらいいんだ。解法が全然わかんないよ。

一方で今は、ねとねとと自分の体にへばりつくような課題を、あーめんどくさい、うーんおっくうだ、ちくしょういろいろやることがあるなあと、片っ端からブツブツさばいていくような感じだ。

昔のほうが遠かった。今のほうが近い、というか、うっとうしい。


どっちのほうが大変だと価値に順位を付ける必要もないのだ。若いころのぼくも今のぼくも、どちらもぼくなのだからケンカしてもしょうがない。ただ、悩みやストレスには軽重だけではなくて距離の概念があるということは、なんとなく、気にしておいてもいいかもしれないなと思った。他人が何かを悩んでいるときにも、そういう目線で、重さだけでなく遠さについても見ておくとよいのかもなと思ったのだった。

2023年9月28日木曜日

病理の話(821) がんの根拠

細胞を見て、がんか、がんじゃないのかと判断するにはなんらかの基準が必要だ。その基準が「一種類」ならいいのだけれど、なかなかそうもうまくいかない。


病理医になるための訓練をはじめてしばらくの間は、診断の基準、あるいは根拠を、きちんと報告書に書くように指導されることが多い。

「がんです。」

とだけ書いてもだめで、「ナニナニがコレコレしているから、がんです。」と、自分がなぜそれをがんと判断したのかの筋道を示すのである。

ここでよく使われるのはたとえば次のようなフレーズだ。


「核の腫大」。細胞の核が普通のものにくらべて大きく腫れ上がっているということ。

「クロマチンの増加」。核の内部にある染色体がいつもよりも濃く染まっているということ。

これらの所見があると、ある細胞を「がん」であると認定しやすい。


ただし実際には言うほど簡単ではない。核が大きくなるとか、クロマチンが濃くなるといった現象は、がん以外の細胞にも見られるからだ。

「がんっぽい見た目になっているけれど、じつは良性」という細胞があり、始末が悪い。がんだと判断して手術をして、臓器を採ってきてよく見たらがんではなかったというとき、「なーんだがんじゃなかった! よかったねえ」で済ませられるかどうか。がんじゃないのに大事な臓器を切り取ってしまったことがダメージとしてのしかかってくる。


そこで病理医は、ある細胞が「がんである根拠」を、より深く考える。

「核の腫大」だけで終わらせない。より細かく読み解く。たとえば、もともと卵形をしている核がパンと球形に張り詰めるようにふくらむのと、だらしなくビロビロに伸びた靴下のようにふにゃふにゃと大きくなるとではだいぶニュアンスが違うだろう。

「クロマチンの増加」だけで終わらせない。核の中の、核膜と呼ばれる部分の色がどれくらい濃くなっているのか。核の内部とくらべてどうなのか。中身が増えて色が濃くなっているとき、その部分の模様は、大小のツブツブが入り混じるごま塩状なのか、均質で微細なテンテンが多くみられる塩状(ごまがない)なのか、それとも、スマッジと呼ばれるべったりとした油絵風なのか。

これらの所見をひとつの細胞で判断するのではなく、隣同士の細胞と見比べてどうなのかを考える。近所の細胞がぜんぶ同じような見た目になっているのであれば、それらは「同一の起源から発生した兄弟」であると判断することができるし、逆に周りにいる細胞どうしが似ても似つかないほど異なった核性状をしているなら、「増殖の異常がつよすぎて、足並みが揃っていない状態」ではないかと推察することも可能だ。

核どうしの距離はどうか? 核の向きは揃っているか? マスゲームのようにあらゆる細胞が同じ方向をむいていたらそれは何かおかしなことが起こっている。逆に本来は秩序をもって並んでいてほしい場所で細胞の向きが好き勝手バラバラだったらそれはそれで異常だ。

近所に「正常の細胞」があるとわかっているならそれと見比べるのもよい。まわりにたくさんの細胞がある中でこの一角だけ妙に色が濃い、となればそれはきっと意味のある所見だ。

そしてこれらを、どんどん組み合わせていく。



「内腔の細胞と基底側の細胞のおりなす『二相構造』は消失しているからがんかもしれない。しかし、核異型はさほど強くないから、核だけでがんと即断できるわけではない。ただ、周りの細胞とくらべてこの一角だけは隣近所の細胞が似通っているように見える。核のクロマチンは軽度増加し、ときおり核小体が顕在化していて、核膜はさほど不整ではないのだが核のサイズが軽度増加して、それもパンと張っている感じがする。免疫染色を行うとbasal phenotypeマーカーが一切内部に混じってこないのは良性としては少し気になるところだ。管腔内に壊死がある場所がある。これらを総合すると、この一角はがんだろう。」

これくらい、こねくり回した内容を、すべて報告書に書いてもだめだ。病理医以外は何を書いているかよくわからない。主治医すら振り落とされてしまう。だから、以下のようにまとめる。

「異型を有する細胞が均質に増殖しておりがんと判断します。」

異型、というのは「正常からのかけはなれ」という意味だ。異型を有する、すなわち、「ふつうじゃない」くらいの意味である。今の一文には実際ほとんど意味がない。がんだからがんです、と言っているのと近い。でも、病理医は、こう書く。「異型」というのが具体的に何を意味するのかをしっかり吟味した上で、主治医や患者を振り落とさないために表現を簡単にまとめて、「異型を有する」と書く。ほんとうは裏でいろいろ考えている。

2023年9月27日水曜日

病みと光

大分市で書店イベントをやった。豆塚エリさんとご一緒した。会場からの質問コーナーで、最前列に座っていた方から「違和感の表明」があり、ぐっと来た。


その方の違和感とはなにか。


「豆塚さんが1年前に出された書籍『しにたい気持ちが消えるまで』を途中まで読み、いかにもつらく苦しい記憶が書かれている。だから今日もそういうイベントなのだと思っていたが、今日は豆塚さんもヤンデルも語り口が割と明るく、ニコニコしていて、そこが解せない」
というのである。


その男性とはトークイベントの最中何度も目があった。会場がわっと盛り上がっているときも深く沈み込んだような目をしていて、ニコリともしないでいる。なんとなく、うっすらと、「自らの辛さと書籍にある辛さとを寄り添わせながら、痛みや苦しみの記憶をゆっくりと殺している最中」なのではないかと感じていた。

なので、会場からの質問でその方が真っ先に手をあげたときに、内心、(来た!)と思った。

「お二人が楽しそうにお話しされていることに違和感がある」。だろうな、と思ったぼくは、トークイベントの間にぼんやりと用意していた「矢」を放つことにした。


しかし、矢を弓につがえたところで、少し考えて、いったん弦を緩め、まずはほかの聴衆の方々にもライトにわかっていただきたいこととして、以下のようなことを言った。


「ありがとうございます。まず、『しにたい気持ちが消えるまで』については、これ、読み終わった方の多くが似たようなことをおっしゃるんですけれども、内容は非常に重く真剣な本ですが、なぜか読み終わると読後感としては明るさが待っているんですね(ここで会場の幾人かがうなずかれる)。全編にわたって鬱鬱としずみこむだけの本ではない。ご質問をくださった方は、現在読み途中、とのことですが、できれば最後までゆっくりと読み通してみてください。そうしてから、今日の我々のテンションを思い出してみていただければと思います。最後まで読み終えると、なぜ我々が本日基本的にポジティブな精神状態でお話ししているのか、なんとなくわかるのではないかと思います。」


会場の多くはそれで納得をしたように見えた。その空気が凪ぐのを待って、あらためて矢をつがえる。

最初の答えはわかりやすい。「じつは明るさを内包した本なのだ」と述べることは売り上げにもつながるから書店イベントとしても適切だろう。

しかし、ぼくが本当に言いたかったのは、次に控えめに語ったほうのことだった。



「我々が日々こうしてポジティブに暮らしていることと、心の中につらさを抱えたままでいることとは矛盾しないと思うんですよね。」



ぼくは生きづらさを抱えたまま、まさに名の通り、病理医ヤンデルとして人前でニコニコと話をしている。そのことを、少し口調を変えて、軽く付け加えた。

微妙に話がずれたことに気づいた人は何人いただろうか。

質問者は軽く目を見開いた。



「ヤンデレ」「ヤンデル」といった語感を利用したアカウント名は、「医者なのに病んでいるの?」「ネットにどっぷりとはまっているから病んでるってこと?」と、見る人の心に波風を立てるための装置であり、「ヤンデルって名乗ってるのにわりと真面目なことを言うんだね」も、「あれだけの連ツイをするなんてアカウント名通り病んでるなあ」も、およそ思惑通りのリアクションである。

しかし、12年前、実際にその名を名乗り言霊を引き受けるにあたって、今だから言えることだが、ぼくは本当に病んではいないのか、あるいはそのまま真っ直ぐ病んでいるのかという疑問を、自らに対してだいぶ長いこと問いかけた。世のあちこちにいる真に病んだ人をあざわらうような展開にはならないか。シャレで病んでいるフリをすることの失礼さはいかばかりか。ミイラ取りがミイラになる感覚で自分の精神が実際に壊れていくことはないか。ぼくは本当に病んでいるということはないのか。

結論として、ぼくは本当にヤンデルのかもな、というまとめのもと、ぼくは病理医ヤンデルをはじめ、いつしかそれを内面化した。



「病み」は、どこかに固定された状態を指すわけではなく、ゆらぎ、振動する概念である。座標が指定できるようなものでもなく、ある体積のどこかに確率として存在する電子雲のようなものだ。笑わない人の目をみながらぼくはずっと考えていた。「自殺未遂をしたのに、病んでいるのに、なぜ今そうして笑っていられるのか」という質問が出る根底には、みずからの居る場所が淵の底、部屋の片隅、暗闇の一点にしかないという思考があるのではないか。しかし本当はそうではないのだ。ぼくと同じように、人は病んでいながら笑っていいし、病みながら同時にすこやかであることもあり得る。逆に笑っていながら病みを抱えているのも自然なことなのだ。ぼくはそういうことを言いたかった。12年以上ずっと言いたかった。それがぼくの矢であった。質問者はいつまでも考えていた。

2023年9月26日火曜日

病理の話(820) 採算と診断と自腹

病院にも経営という概念がある。たくさんの専門家を雇うための人件費が必要だし、医薬品や医療器具を買ったりメンテナンスしたりするのにもお金がかかる。

そのお金はどこから出てくるのかというと、当然患者が払うわけだが、自分にかかったお金を全部払おうと思うととんでもない額になる。お腹を壊して病院にかかってちょっと点滴打ってもらっただけでも、仮に全額払おうとすると何万円とかかる。びっくりするかもしれないが、それだけの試薬とシステムを使っているのが現代の医療だ。

それでは大変なので、日本では、病気になった個人がその場で全額を支払わなくてもいいような仕組みがある。国民が支払っている健康保険料をプールして、本来患者が支払うべき額の7割~9割をまかなう財源とする。

社会が個人を支えている。

マンモスに跳ね飛ばされた狩人が自分の体力だけで生きるか死ぬかとやっていた時代とはわけが違う。

ひとりがくるしんでいたら世間で支える。ひとりひとりが社会の一員として未来の誰かを助けている。



したがって病院の収入もざっくりと7割くらいは国民全体に支えてもらっていることになる。(※ほかにも税制の優遇とか行政からの支援金とかもあるけど、ここでは雰囲気で話しているので正確性については大目に見て欲しい)

となれば、医療従事者はちゃんと節約すべきだ。社会に助けられて医療を担わせてもらっている以上、社会のために無駄遣いは削っていかなければいけない。

そのためには個々の医療従事者がちゃんと経営感覚をもって日々診療にあたる必要がある。人助けならいくらお金を使ってもいいというのは発想が貧困だ。あるひとりに湯水のようにお金を使ったせいで翌日やってきたべつのひとりを助けられないかもしれない、というジレンマに敏感であったほうがいい。


たとえば、やってもやらなくても診療方針が変わらない検査をポンポンオーダーしてはいけない。患者のためになるならばまだしも、「その検査値を医療従事者が見てみたいから」というだけで検査を出してはだめだ。

とはいえ、病理診断学をやっていると「経営的にはだめなんだけどこの検査はやっておきたいなあ」という場面がたまにある。

この検査の結果が白と出るか黒と出るかで、患者の治療が大きく変わるわけではないし、患者がこの先どうなるかという未来予測にもさほど役に立たないのだけれど、病気の正体に半歩くらい近づける、医学の進歩に貢献できる、みたいなシーンが難しい。100%進歩するというならいいが、2%くらいの低確率で2 mmくらい前に進むかも……くらいの話に患者や社会から預かったお金を注ぎ込むのはバランスとしてちょっとなーという感じである。

例としては「腫瘍細胞を切片から切り抜いてきて、病気の中だけに存在する異常なタンパク質や遺伝子の変化を特殊な方法で調べる」みたいなものだ。

1回調べるのに数万~数十万円かかる。患者の治療に直結するわけではないので、医療保険で国が負担をカバーしてくれるわけもなく、患者にもお金を請求することができない。

ではそのお金はどこから出るのか?

ひとつの回答が「研究費」だ。

研究費の出所はいろいろあって、科研費のように国が別の予算を立てて「このお金は科学の進歩のために使おうね」とあちこちの了解を得たお金であったり、病院が経営判断の中で「これくらいのお金は医療スタッフの研究にあてよう」とあらかじめよけておいてくれたお金であったりする。いずれも診療で動く金額に比べるとスズメの涙であるが、まれに、大型の研究予算なんてのもあって、もちろん競争率が激しいし優秀な研究者のもとにしか届かない(大須賀覚あたりはそういう予算をときどき引っ張っているから偉い)。

米国では民間から病院への寄付が膨大な金額になっていて、寄付金を用いて潤沢な研究を行っている場合も多い。しかし日本ではそういう関係性は少ない。

あわてて現場の研究者たちがクラファンをはじめたりしている。ただしクラファンはピンキリなので応援しやすいものとしにくいものがあるけれど。


ぼくも、たまに研究費を使って、病気の解析を少し深く行ったり、似たような症例をいくつか集めて解析をやり直したりということをやる。

ただ、研究費だけでやりたいことができるわけではない。

日常に潜む細かな検査、ひとつひとつは数千円くらいだったりする、そういったものを毎回研究費でなんとかできるかというと、少額なためにかえって面倒になったりもする。

あるいは、診療を続けていくための勉強にかかるお金。本とか出張とか。それもぜんぶ研究費でなんとかする……というのは実際むりである。

そこで「自腹」となる。教科書を買い、研究会や学会に通い、まれに簡易な遺伝子検査にかかる数万円を自分で支払って結果を確認する、みたいなやりかた。

これは下策だ。よくないと思う。医療従事者や研究者の仕事は社会と互助関係にあったほうがよく、個人の気持ちでなんとかしてしまうとシステムが腐っていく。

なので若い人には同じことをやらせたくない。なるべく研究費を取っておいて、若い人がやりたいこと、勉強したいことを病院の予算で応援できるようにあちこち奔走する。結果、自分のために使える予算がなくなるので、また自腹を切るのだが、若い人が上にあがってきたときに困るので、根本的に研究費を増額できるように別の手段を考えて少しずつ調整を進めていく。

こういうことをずっとやっている。



「自腹構造」のような歪みを見つけて、「よくないよ! なんとかお金をもってこないとだめだよ!」とやいのやいの言う人がときにあらわれる。

そういう人たちが、実際に現場に何か役に立つ提言をしてくれたり、財源を付けてくれたりすることはない。善意からの発言だろうけれど、申し訳ないが言いたいだけなのだろうなと感じる。

ぼくだってそんなことはとっくにわかっているのだ。だから、歪んだ構造を少しずつ少しずつ直しながら、「修理が追いつくスピードよりもすばやく研究したがっている自分の心」を癒やすために自腹を切ることもまだ続いている。

あとに続く人には同じことをさせたくない。しかし、ぼく自身がそうすることを、外野から止められても困るのだ。ぼくが何かを追究したい心だけがストップしてしまうことに、外野の人間が責任を取れるわけではない。ぼくが最後の自腹世代だと言われることが目標である。

2023年9月25日月曜日

軽自動車館の全国的知名度が気になる

毎日むさぼるように他人の人生を読んでいる。自分と同じ考え方をする人は少ないんだな、とか、誰もが違う考え方のまま摺り合わせているんだな、とか、自分と同じ考え方をする人も意外とあちこちにいるもんだな、とか、日によってさまざまな感想を持つ。どれかひとつの本を読んですごく良かったとか良くなかったとかいう気持ちになることもあるが、「この時期にこれだけの本を読んで全体として浮き上がってきた感想」みたいなものをぼんやり抱えたりもする。



話は変わるがそろそろ車を買い換えたい。中古で購入した、ワゴンともセダンとも付かない微妙なサイズの車をさんざん重宝して乗り潰してきた。走行距離が16万キロに達そうとしており、次の車検では膨大な金額がかかる。タイヤを買い換える時期も迫っていて、さすがにそろそろ手放す。ライフスタイルも変化していて、大きな車にテントを積み込んでみんなでキャンプみたいなことも今後は少ない。次の車は小さくする。

しかし小さすぎるのも辛い。札幌市はそれなりの積雪がある町だ。冬の轍(わだち)にタイヤをもっていかれるのがしんどい。四駆のほうが安全だ。タイヤが小さいと制動性が悪くなるからタイヤはそこそこのサイズがいい。車高が低いといわゆる「亀の子」状態になるリスクをはらむから少し高めのほうがいい。いずれも凝り性や心配性で言っているのではなく、札幌に住む人が多かれ少なかれ気にしていることだ。ジムニーがすぐ売り切れる理由でもある。

若い頃は、道に車がハマっても自分たちでなんとかするだけの体力と鷹揚さがあった。友だち同士で車の後ろをエッサエッサと押してスリップから抜け出しながら、二駆の軽自動車で何冬も過ごしたものである。しかし今は車なんて押せない。手首から肩までの全ての骨が粉微塵になる。吹雪の夜に車の外に出るだけで失望して失神するだろう。車ハマるイコール死ねるである(脚韻4連)。

「職場と家の往復だけなら最悪大きな道を通ればなんとかなる、山中ならともかく札幌の市街地なら軽自動車でも行ける」というのは昔の人の考え方だ。幹線道路のような2車線以上の道だけ通行して生活できるならばまだしも、除雪の予算が削減された今、ちょっとでも郊外に出ると、あるいは小路に入ると、除雪が追いついておらず、悪路っぷりは昔の比ではない。車線は基本的に片側につき夏マイナス1がデフォ(片側1車線ならば道はなくなる)。雪を最後まで持っていかずにちょっとだけ路上に残すエコなシステムも導入されており以前よりも深い轍。路肩に雪を積んだまま運ばないので全体的に視界が悪い。軽自動車の恐怖は令和になって増悪している。

小さい車を買う気がしなくなる理由がもうひとつある。値段だ。いまどきの軽自動車は別にそこまで安くはない。あえて小さい車に乗りたい人がきちんとお金を払って乗るものであって、「軽イコール安い」という図式がそもそも成り立たない。



と、自分の考えを延々と書いてきたが、車選びについては人によって価値観がまるで違うので、一見筋道を追って書いているように見える上記の文章も、他人が読むと「そんなことないよ」「俺とは違うな」「そんな考え方もあるのか」くらいにしか思われない。車そのもの、あるいは車のある暮らしに対する人それぞれの考え方の違いがありながらも、道はすべての運転者を受け止め、町はあらゆる消費者を支える。それでそんなにケンカもせずにやっていくのだから、社会というのは本当に包容力がある。ぼくは軽自動車に乗りたくないのだけれど軽自動車は今日も町にたくさん走っている。

2023年9月22日金曜日

病理の話(819) 疾患の重心

萩野昇先生がThreadsで連続投稿されていた文章を読んでいたら、こんな文章が出てきた。

”関節リウマチ、クローン病など、多くのサイトカインが関与する疾患が、たったひとつの「TNF-α」というサイトカインを抑制するだけで劇的に改善してしまった。例えて言えば、台風の中で二酸化炭素の濃度を下げるだけで台風が消えてしまったかのような印象を受けた”

そうだよなあ。なるほどなあ。


***


医学を学んでいると、健康も病気も、すべて「複雑系」だと感じる。ひとつのファクターで何かが決まることがなく、あたかも将棋の局面のようだ。こっちに香車が利いており、あっちは銀が抑えていて、かたや角が潜み、互いの飛車が遠くからにらみあう。「全体としてやや後手が優勢」、みたいなかんじ。たくさんの登場人物たちのバランスによって、局面が形作られる。「犯人」がひとりに決まるようなことがない。

医療もこれに似ていると思う。

たとえば「がん」。「親ががんだったから子どももがんになった」とか、「毎日酒を飲んでいたからがんになった」みたいに、因果をひとつの矢印で言い表せることはまずない。細胞がおかしくなるに至った遺伝子異常も、1つのDNAがおかしいとか、2つのタンパク質が狂っているという話ではなく、数十、数百の遺伝子が異常を来していることがほとんどだ。それらがいっぱい積み重なって、がんという病気を形成している。サイコロを振るような「運」の側面もかなりある。


そんな中で、抗ヒトTNF-αモノクローナル抗体製剤であるインフリキシマブ(商品名:レミケード Remicade)が、関節リウマチやクローン病という病気を構成する登場人物たちのひとりでしかない「TNF-α」を抑え込むだけで、病気をまるごと良くしてしまうことに、ぎょっとするのだ。

はあ、そんなことがありえるのか、と驚いてしまう。

将棋でいうと、「そこに歩を一個置いただけで、相手が打てる手がすべてなくなってしまい詰む」みたいな感覚だろうか。

秘孔を突く、みたいなかんじにも近い。指先一つで大男がダウンする。

「そこに伏兵を置いたら全部ひっくりかえるじゃないか!」と敵将が愕然とする諸葛孔明の采配。



病理診断にもときに「重心」のようなものが存在する。

ある病気を診断する上で、細胞の形態がゆがみ、核の体積が増し、核小体が明瞭化して、細胞同士の結合性が低下し、細胞が織りなす構築が乱れ……。ふだんはこういう、複数のパラメータを同時にチェックしながら、総体として病気を診断していくわけだけれど。

ときに、「とある免疫染色ひとつで診断を確定させてしまう」ということが起こる。

たった一種類のタンパク質が異常に増えているからといって、ある病気だと言い当てることは、本当は難しいはずなのだが。

たまーに、「重心のところをそっと指で持ち上げるだけで全体がふわっと浮かぶ」みたいなふうに、診断できることがある。


「重心を針で突く」ように診断。めったに決まらないのだが、複雑系の気脈の要を抑えたかのような、不思議な達成感を味わうことになる。……とはいえ患者にとっては診断がついてからが大事なので、あまり喜んでもいられないのだが。

2023年9月21日木曜日

しぶとく生きる

去年かおととしかにGUで買った職場用のパンツがよれてきたので新しいのを買おうと思った。自分が今履いてるものと同じものをオンラインで買えばいいと気づいて、はじめて店舗ではなくオンラインショップを使うことにした。これが今の若者の服の買い方かあ、とホクホクした。しかし15分くらいであきらめた。ぜんぜんわからない。まず今履いているパンツがどれなのかがわからない。タグについている番号などで検索してもうまく出てこない。どれも似たような形なのでひとつひとつ、サンプル画像の中にならぶ動画でチェックするのだが、形状もそうだがなにより生地のキメの細かさというか肌触りがよくわからない。今履いている、乾きやすいやつがいいのだ、ただそれだけなのだ。特殊な新商品を探したいわけではないのだ。でもわからない。これか? こっちか? 画像がいっぱいついているが、黒を指定するとぜんぶ似たような素材に見える。モデルはいちいちニヤニヤすんな。ああ、Mサイズの在庫がない。サイズの在庫で絞り込みたいのだがそういう機能がないようだ。あるのかもしれないが2秒でたどり着けなかった時点であきらめてしまう。「入荷したら知らせる」というボタンがあるけれど、いつ入荷するのかの目安が書いていないからこのボタンひとつに賭ける気にはならない。これなら明日にでも実店舗を訪れたほうが早い。なんのためのオンラインショップなのだ。メルカリやZOZOタウンも使ったことがないが、いっそそっちのほうがいいのか? GUのパンツを2年で履きつぶして更新するのだから新品のほうがいい気がするのだが……。


……みたいなブログをずっと書いている。


書き殴りだ。いやキーボードだから打ち殴りか。

19歳のころから、媒体を移り変わりながらなんだかんだで26年書いている。おかげでキーボードを前にすればとりあえず1500字とか2000字くらいの文章はすぐに出力できるようになった。けれども、もう少しよく考えてものを書きたい気持ちもある。それができたらどんなに良かったろう。いや、よけいにつらかったかもしれない。



ちかごろは、「ちょっと生きづらい人」が書くエッセイをざぶんざぶん読んでいる。又吉直樹、僕のマリ(これで人名)、道草晴子。なぜこんなにも生きづらい人の話ばかり手元にあるのかと不思議に思うが、ちゃんと理由があって、先日青山ブックセンターで平積みになっている本を手当たり次第に購入するイベントというのに出て、本当に手当たり次第に放り込んだらこうなっていた。そういう品揃えにぼくの目と手が反応したということだ。ひとまずエッセイばかり読んで小説を後回しにしている。小説もやはり、生きづらさを語ったものになっているだろうか。

創作というのはたいがいそうなのだろうか。

そうだろうか。




ここ1年くらいで読んで気に入った本でいうと、そういえば、田所敦嗣『スローシャッター』から感じ取ったものは「生きづらさ」ではなかった。「しぶとく生きること」というか。両者は同じかもしれないがちょっと違う。離人して俯瞰して書くか、縁辺視を強化して書くかの違い。田所さんの書くものは、ここしばらくぼくが読んでいるものとはちょっと違った。彫刻刀で少しずつ何度も削り取るような本で、ああいう文章が書けたらいいだろうなと思った。