2017年1月19日木曜日

病理の話(39)

体の中にはさまざまな構造物がある。

すべての構造物は、「細胞」、あるいは「細胞によって生み出されるもの」からできている。

細胞は、酸素やたんぱく質、脂肪、糖質などからできているが、これらは、体外から補給しなければならない。

それも、ひとたび補給したらそれで終わりというわけではない。人間が生きている限り、ある程度の頻度でご飯を食べなければいけないのとまったく同じで、あらゆる細胞もまた、外界から栄養を補給しなければいけない。

体の中にあるものはすべて、ご飯を食べ続けなければ維持できない。手間をかけ続けなければいつか壊れてしまう。

ということは、である。

体の中にあるものにはすべて「意味」がある、ということになる。意味のないものに手間をかけて、一生飯を食わせ続けるようなことは、無駄だからだ。

だから、一般に「もうちょう」と呼ばれる虫垂(ちゅうすい)も、腸をつなぎとめているだけの腸間膜(ちょうかんまく)も、ひじの曲がるところにある余った肉も、とにかく全部、「意味がある」。


以上が科学的な証明かどうか、と言われると、ちょっと迷う。ものがそこにあるのは意味があるからだ、というのは、なんというか、宗教にも、自己啓発本にも似ているようで、文学的ですらある。

けれど、この「ストーリー性を探す」という作業は、複雑すぎる人体を理解するとき、その人体に生じたなんらかの不都合(つまりは、病気)を理解するとき、治療法を考えるときなどに、ある程度役に立つ。


生命の理、すなわち生理学。

病気の理、すなわち病理学。

薬の理、すなわち薬理学。

これらの根幹には、理念、ストーリーが転がっている。


ぼくが人体を考えるとき、特に頻繁に使うストーリーがある。その一つを紹介する。


***


体の中には様々な構造物が存在し、飯を食い、息をしている。自分が自分であり続けるための機能が備わっている。常に外界から無数の因子を取り込み、常に新陳代謝を行い、新しく、かつ今までと同じようにあり続ける、という姿勢。この姿勢を「自己恒常性」(ホメオスタシス)と呼び、ホメオスタシスを全身で実現し続けるものを、我々は俗に「生命」と呼ぶ。

ホメオスタシスは、

・外界にある無数の物質がやたらめったらとやってきたときに、
・その中から自分の役に立つものばかりを大量に集めてとりこみ、
・自分の敵はきちんとはじきかえし、
・役に立つものを使って自分を作り上げた後、ゴミを捨てる

というプロセスにより、実現する。

・お店に並んでいるいろんな商品を見て、
・自分が今食べたいもの、今日使いたいものをカゴに入れて買い、
・火の元に気を付け、きちんと防犯意識を持ち、くさったものは食べないようにし、
・食べたり飲んだり遊んだりして出たゴミはきちんと捨てる

これもまた、立派なホメオスタシスの姿である。

生命活動をほどよく維持するためには、「何かひとつの物質」に依存し続けていてはいけない。一種類のものに強烈に依存してしまうと、仮にその物質が枯渇したときに、一発で死んでしまう。

生命活動に悪影響を与えるような敵は、物理刺激、化学物質、ほかの生物(細菌とかウイルスなども含む)など枚挙にいとまがない。生きていくためには、たくさんの防御機構を幾重にも張り巡らせる。一種類の敵が少量やってきた程度なら、多少のダメージは負っても、すぐに回復してしまうようなシステムがあればなおいい。

これらを理解することで、「ビタミン剤1個で健康に!」とか、「牛乳を飲めば寿命が延びる!」みたいな論調が、まゆつばなんだろうなあ、ということがわかってくる。



西洋医学は、「何か一種類のものを体にぶちこむことで、病気を駆逐しようとたくらむ」という性格を、多かれ少なかれ持っている。生体にとって、何か一種類のものが入ってきただけで、すべてがうまくいくようになるシーンは、驚くほどに少ない。だからこそ、「これは役に立つぞ」という推測は慎重に、学術的に、説得力ある状態で行っていかなければいけない。

インターネットのおかげで、なぜこの治療が体に効くのか、という「学術的な」説明を手に入れることは比較的容易となった。そこにさらに、「説得力」を添えようと思ったとき、ストーリーが重要さを帯びてくるのではないかと思う。