2017年1月5日木曜日

タイトルド・ドキュメント

休みの間にいろいろ考えていた。具体的には、趣味をどうするか、という話だ。

音楽を聴くとか本を読むというのは、衣食住に限りなく接近してしまっている。衣食住音読と並べても何の問題もない。だから、趣味とは言えないなあと思う。そうなると、ぼくは現状、仕事しかしていない。

38歳。ここまでほぼ仕事一筋の人生だった。しかし、タイムラインの仕事人間が、山に登ったり写真を撮ったりしているのを見て、うらやましいと思うようになった。

楽しそうだなあと思うようになった。

何のために働いているのか、みたいな、「働くための動機付け」は特に必要としてこなかった。趣味がないと働けない人もいるようだが、ぼくは趣味がなくても働くことはできる。そういう「何かのために持つ趣味」ではなく、単純に、何か違うことをしてみたいなと思った。



運動をしようかと思ったのだが、18年間続けて14年ごぶさたである剣道を今からやり直すにはいろいろと制限がある。第一に、剣道は一人ではできないので、朝稽古に混ぜてもらうか、どこかの少年団や部活などを応援するか、同好会のようなものに入るかしないといけないのだが、勤務時間的にうまく時間を合わせられない。もう少し仕事のやり方が変わるまで待ちたい。だから剣道は保留。同様の理由で、草野球とかフットサルみたいな集団でやるスポーツは全て保留とした。

ランニング、ジム通い、水泳、ボルダリングといった、一人でできそうな運動も考えてはみたし、実はトレーニングウェアの類いも一通り持っているのだが、多少走ってみたけれど、ま、趣味というかこれはぼくの場合、痩せたいとか筋肉を戻したいみたいな目的がほしいわけで、言ってみればタスクだなという感じがした。

酒を飲もう、ウイスキーかワインを趣味にしようと思ったこともある。フェイスブッカケの友人達の中には、週末毎に外食の写真を載せたり、イベントの度にワインセラーを開けたりする人間もいる。考えて、何本か蒸留酒を買ってみた。しかし、減らないのだ。醸造酒すら1本空くまでに信じられないほどの時間がかかる。家で飲めるだけの体力がない。ぼくはそもそも酒が好きじゃないのかもしれない、とまで思うようになった。

釣りはどうだ。映画を見よう。ゲームをしようか。温泉に行こう。キャンプ用品ならある。スキーも持っている。

いずれも続かなさそうだ。試してはいない。ただ、続かなさそうだなあと思うのだった。


ぼくは、たぶん、誰かに引っ張ってもらえば、どれも楽しむことができる。楽しむ人の理由を想像して、楽しんでいる人と同じシナプスを発火させて、同じように興奮したり笑ったりすることができる。忘年会で飲んだ酒はおいしかった。剣道部時代は毎日求道していた。家族で訪れた温泉は気持ちがよかった。元の義父と行った釣りは長閑だった。

あるいは、登山をすれば。いいカメラを買って旅に出れば。ぼくは、楽しい思いをするのかもしれない。けれどそれは、「誰かもこうして楽しんでいたっけな」と、横にはいない誰かの脳を想像してトレースするような作業になるだろうな、と、心の小部屋にいるぼくが頬杖をつく。



そういえばぼくは常に他人の素材で暮らしている。そもそも病理医という仕事がそれだ。付き合う科ごとに異なる立場の患者、異なる疾患、異なる医療者を相手にして、どこかから来た素材に自分の調味料を施して返して、ということを繰り返す。はじめて書いた英文論文がreview(総説)だったのだが、消化器内視鏡診断の総説であって、病理の内容はあまり出てこなかった。他人の書いた論文を集めて評価してまとめて教科書のように送り出した。先日上梓した教科書も内視鏡診断学だ。昨年より続いている連載原稿も超音波診断をモチーフとしており、超音波診断医が持ってきてくれた症例を見てリアクションするかたちで原稿を作っている。

ぼくがやっているのは徹頭徹尾、誰かの脳に追随し、その引っかかりを直したり、あるいは寄り添って追体験したりすることばかりのようだった。

くせになってしまっているのだろう。いざ、自分発で何かを楽しもう、何かを趣味にしようとしても、他人がこれをこう楽しんでいるんだなとか、何かにはまっている人というのは何かに落とし込まれた自分を見て満足できたんだな、よかったなあとか、そういったことばかりに思いが及ぶ。



そうか、ぼくは、誰かの思考をなぞることが好きなのだろうか?
では、それを趣味に活かすことはできないのか?



考古学や古典文学を慈しむ人のように、かつての人々が何を思い、どう暮らしたかを想像していく作業は、夢があり、とても楽しい。しかし、abduction(仮説形成法)と呼ばれるこの知的作業は、そもそもぼくが病理診断において日頃から使っているメソッドそのものでもある。Induction(帰納法)やdeduction(演繹法)のような完全な証明とは違い、abduction(仮説形成法)には厳密性がない、あくまで推定に留まる。ただし、いかに万人が理解しやすいストーリーを隙無く語るかに、魂が込められる。文学的な科学、と言ってもいいかもしれない。

Abductionは趣味の世界として語られることがある。いちおう、立派な学問ではあるのだが。そうか、ぼくの仕事は、受け取りようによっては、趣味みたいな風情があるのかもしれないな。趣味で生きる人間とはステキなことだ。かつてのぼくも、趣味に生きる人間というのは楽しそうだなあと思っていた。

仕事は仕事だ。楽しい。やりがいがある。そして、何か違うものも見ておきたい。趣味という名の、自分の有り様を変える何かを別に用意しようと思ったのに、仕事が趣味っぽくて、だから、仕事以上の趣味を見つけられない、ときている。

頭を抱えてしまう。



こういうことを書くと、「○○、おすすめですよ」のように、自分の趣味を教えてくれる人も現れる。ありがたいことだが、ピントがずれている。趣味を探している最中、誰がどのように楽しむのだろうというトレースをしすぎて、まだやりもせずに飽きてしまったぼくである。

「なるほど、○○をやると、これこれこういう理由で楽しいんですね、きっとこういう楽しみ方も、こんな刺激もあるんでしょう、それは素晴らしいことだ……」

これで満足して終わりだ。むしろ、趣味の可能性を1個潰されたようなものである。



本を読み、音楽を聴き、目的のない旅に出る、脳内で。

そういえばぼくは自分の趣味をブログのタイトルにしていたのではないかと思い立つ。