2017年2月28日火曜日

病理の話(53) 病理医は医者ではなく学者ではないのか

病理医というのは不思議な仕事で、病気に名前を付けたり、病気の進み具合を検討したりといったことを、日がな一日やっている。

つまりは、患者さんのおなかを押したり膝を叩いたりといった「診察」をまったくやらないし、血の巡りが悪いからあの薬を入れようとか息が苦しそうだからこの機械でサポートしようといった「治療」をまったくやらないし、これから一緒に病気と闘っていきましょうとか不安なことがあればいつでも言ってくださいといった「患者さんへの説明」をまったくやらないし、傷跡が落ち着いたからそろそろ退院してもらおうとか痛みが強そうだから痛み止めを増やそうといった「病棟の維持管理」をまったくやらないし、この先血圧が高いといろいろ問題になるだろうとかピロリ菌がいない方がこの人の胃にとっては将来いいことの方が多いだろうといった「患者さんの健康維持管理」をまったくやらないし、手術後すぐに歩き始めた方がいいだろうとか骨もくっついたからそろそろ運動して関節を動かそうといった「リハビリ」をまったくやらないし、低空飛行で死に向かう患者さんの様子をみながら食べたいものをどこまで食べさせようとか日常生活をどのように送ってもらおうといった「終末期ケア」をまったくやらない。

薬のことをあまり知らない。点滴のことがわからない。注射をしない。CTの予約ができない。傷が縫えなくて気管挿管もできなくて眼底も見られなくて心電図もたいして読めない。


それなのに医者と同じ給料をもらう。これが許されるのか、という話だ。



ずっと脳だけを使う。多少の事務仕事をしながら。ひたすら座学に励み、顕微鏡を見て、パソコンを使い、医療者とだけ会話をする。

そういう人がいないと医療は回っていかないから。

先生のおかげで診療が深まっているのだから。

大学とも連携してるんでしょう? 研究にも詳しいからすごいね。



そうなのだろうか。



ぼくは、世の中の人々が、病理医を全く知らなかった頃に比べて、少しだけ知名度が上がってきた今の方が、厳しい目線にさらされるのだろうなあという「危機感」を持っている。



ぼくらは本当に医者を名乗ってよいのか。





病理医というのは不思議な仕事で、病気に名前を付けたり、病気の進み具合を検討したり、病気がどういう背景に発生するのか、どういう像が現れたら病気と言えるのかを、教科書や論文、先人の経験や個人の勉強成果とすり合わせながら、調べて、記述して、説明して、臨床医や多くの医療者たちと相談をし、あるいは納得してもらうための言葉を探すために学会や研究会に出て、妥当か妥当でないかを言うために統計の勉強をして、遺伝学の基本に立ち返ったり分子生物学の深見にもぐったり発生学の古書をひもといたり、逆に聞き手であり商売相手でもある臨床医たちのスタイルを学ぶために臨床診断学を学び、画像診断学を探り、臨床検査学を復習しながら、病理診断を書き、症例報告をし、臨床研究の手伝いをしながら基礎研究の話に花を咲かせ……といったことを、日がな一日やっている。




これは、もしかすると、「学者さん」ではないのか。

学者を名乗るのもアレだけど、いちおう、孫悟飯はあこがれていたっけな。