2017年3月1日水曜日

違いの分からない人の∪⊂⊂コーヒー

「カメラを買う買うと言いながら、まだ買っていない。しかし、そろそろ買おうとは思っている。

たぶん、自分には写真のセンスがない。けれど、ギミックの搭載されたメカは好きなので、いずれ買って、人に迷惑をかけない程度に楽しもうと思っている……。」



このように書く場合の「センスがない」とは、たぶん、

「上手にできない」

という字面通りの意味では、ない。



そうではなくて、
「圧倒的に人の心を動かすようなプロの仕事のレベルには達しない」
くらいの意味だ。

謙遜といえば謙遜である。ただ、ちょっと居丈高にも聞こえる。



こういう言い方をよくしてきたのは、ぼくである。

どうも、ぼくは、趣味にしろ特技にしろ、「プロとして人を感動させられるレベルになれなければ意味がない」みたいな建前を、大事にしすぎているのだな、ということに気がついた。

この話は、ぼくに限った話ではないようだ。

写真を掲載しているブログやインスタグラムなどを眺めていると、ほとんどの撮り手が、低頻度ではあるが、「プロほどはうまく撮れないけどね」という言い訳を、どこかのタイミングで発信していた。

ネットに記録を残す趣味人達の間では、普遍的な謙遜なのかもしれない。

本の感想を書く人は、「プロの書評家ではないけれど、自分の思ったことを書き留めておきたい」と、言い訳をする。

スポーツを楽しむ人も、「別に大会に出て勝つのが目的ではないけれど」と、言い訳をする。

なぜ、わざわざ、「自分が楽しめればいいので。」と、前を向く前に、

「自分にはセンスがないけれど」

とか、

「プロのレベルには達しないけれど」

と言い訳をしないと、気が済まないのだろうか?

自分だけが楽しむということに、何か、「謙遜の圧力」のようなものが、かかっているのかもしれないな。

楽しむという感情は、ほかの喜怒哀に比べると、何か、世間にお許しを得なければいけないような感覚を伴うものなのかもしれない。




ぼくがとてもきらいな言葉がある。

「何が楽しいのかわからない。」

わからないのはあなたの勝手だ。人それぞれ、楽しみのポイントは違う。けれど、なぜ、自分の楽しさのレセプターと相手の楽しさのレセプターが合わないときに、不快をもって語ろうとするのか。

なぜ、自分と同調していない楽しみを持つ人間を、若干の不快感をもって扱おうとするのか。




きらいな言葉だが、それ以上に、怖かった。




「何が楽しいのかわからない。」

そう言われるのが怖くて、

「いや、ぼくのやっているこれ、ちょっとあんまり楽しく無さそうに見えるかもしれませんけれど、これはこれで、とても味があるんですよぉ。」




「それをやって何になるの? プロにでもなりたいの?」

そう言われるのが怖くて、

「いえいえ、まさか、自分にはそこまでのセンスはないんですけどね、その、プロの人々が全身使って表現するようなレベルには全く達しないんですけれども、単純に、趣味というか、自分が楽しめればそれでいいかなあと。」




うーむ。

つまりぼくは、いつか誰かがぼくのことを

「わからない」

と声をかけてくるのが怖くて、それで、自分がほんとうにやりたいことのすぐ側に、「自分にはそこまでセンスがないんですけど」というフレーズを、脇差しのように添えておいたというのだろうか。




ほんと、いったい、何がしたいのかわからない。