病気の診断をする仕事では、「真実」がどこかにあると考えがちである。
いや、まあ、真実はいつだってどこかにはあるのだろう。ただ、診断というのは、「真実を求める仕事」とはイコールではない。
診断というのは、主に2つの理由で行われる。
・今後どうなるかを予測するため
・治療するため
極論すると、科学者ではなく医者が患者をみる場合に、
・今後どうなるかだいたいわかる
・治療の選択肢はすでに決まっている
のならば、診断名を正しく決める必要はないのだ。
たとえば、鼻水がとまらず病院に行ったときに、
「○○ウイルス感染による△かぜで、□□という薬で治すことができます」
まで診断する必要は、ほとんどない。
「なんらかのウイルスによるかぜ」
であるとわかれば、それで様子見が正解だからだ。そもそも、ウイルス性のかぜに対する特効薬は(今のところ)ない。
症状を抑えるための薬なら投与することもできるが、
「すでに鼻水が出ている患者に、鼻水をとめる薬を出す」
のは、診断を決めなくても、やろうと思えばできることなのである。
肝腎なのは、この鼻水が「ほんとうにかぜなのか? あるいは、アレルギーとか、別の病気ではないのか?」ということに気を配ることだ。その意味で、まったく診断をしなくていい場面というのは、おそらく病院には存在しない。
けれど、「かぜ」だけを決めてしまえば、「何ウイルスによるものか」までは決めなくてよい。
将来、かぜのウイルスごとに違う特効薬が開発されたら?
そのときは、あるいは、かぜは今よりもっと詳しく診断されるかもしれないが……。
だまっていても3日もたてば治ってしまう「かぜ」に、そこまで研究費が投入され、それほど高精度な薬を開発する未来が、この先、くるかどうかはわからない(くるかもしれませんけどね)。
医師というのは、このあたりのバランスを知らず知らずに身に着ける。
診断をどこまで進めるべきなのか、診断がある程度(あいまいでも)決まった段階で、できる治療に移るのか。
これをきちんとやっていく医者こそは、患者にも、社会にも、大きく貢献する。
で、病理医の話をすると、ぼくらも、「どこまで診断を詳しくするべきか」というのを、日ごろある程度考えている。
けれど、「これは良性」「これは悪性」のようなざっくりした診断で終わることは、基本的に許されない。
ぼくらは、臨床医よりももうちょっと、診断を詳しく出すよう求められる立場だ。
・患者さんが今後どうなるかを予測するために
・治療の選択肢を決めるために
という2つの意義に加えて、もうひとつの意義がかなり大きくのしかかる。
それは、こうだ。
・結局、何なのか知りたい。
それを知ったからって患者さんに何か影響あるのかよ。治療に差が出るのかよ。こんな疑問が日々聞こえてきて、それでも、ぼくらはもうちょっとだけ先を見る。
病(やまい)の理(ことわり)をみる医者、という名前がよくないのだと思う。
こんな名前をつけるから、ぼくらもその気になってしまうのだ。
「今のところ、ここまで詳しく分類したからといって、あまり喜ぶ人はいないんですけどね、もしかしたら、将来この差が、治療につながるかもしれないんで……」
てへへって感じで頭を書きながら、とても細かい話を診断書のすみっこに、申し訳なさそうに書いておく。
そこにアイデンティティがある気もする。