昔から沢木耕太郎が好きだった。
須賀敦子のエッセイというのは、ぼくがツイッタランドで教えてもらった中ではもっとも大切なものだ。
ぱっと思いついた二人はいずれも随筆を書くが、彼らの文章を読んでいると、優れた日記は私小説と区別がつかないのだなとか、自分を語ることが世界を語ることになりうる人がいるのだなとか、ただひたすらにあこがれる。
旅路の末に、
「たどり着くべくして……ではなく、たどり着いてしまった場所で、なにごとかを思案した人」
というのに、深く惹かれている。
おだやかで激しい文章である。
ぼくの人生は十人並みに波乱万丈だ。
誰もが経験しうる、そして、誰もがさいころを1000回振れば6の1000乗の答えがあるように、誰ともぴったりとは一致しない、ありふれた独自の人生を歩んでいる。
たとえば沢木耕太郎の目がぼくについていたら、ぼくの人生は彼の筆によって、さびしくも芳醇に描かれただろうか。
須賀敦子の耳がぼくについていたら、ぼくの人生は彼女の筆によって、はかなくも陶然と描かれただろうか。
ぼくのあこがれはいつでも敗北感とやるせなさから生まれている。
彼らの紡ぎだす言葉をひとつひとつ辞書で引いたところで、出てくる結果には目新しいものはない。
使う50音はぼくと違わない。使う漢字はほとんど常用漢字だ。
それでも出てくるハーモニーにぼくは厳しい嫉妬を覚える。
ありふれた独自の人生を、ありふれていても誰もが心のどこかに閉まっている、経験したことのない思い出の箱に共鳴させるような書き方。
そんなことができたら、どんなにいいだろうかと、
「いい」と思って完成してしまっていない彼らだからこそ、随筆を書き続けたのかもしれないけれど。
ぼくがあこがれて、たどり着けないだろうとあきらめてしまっている人々は、おそらく、自らの完成形みたいなものに、たどり着いたとは思っていないだろう。
常に口渇に苦しんでいたようにも見える。
それが彼我を分ける差なのだとしたら、ぼくは、自分の人生を振り返って本をまとめて喜んでいる場合ではないのだ。
そう思いながら、来年の春に出す予定の、自分の本の最終章を書くことにする。
白紙がちっとも埋まらない。