油断していると負を集めに行ってしまう。
だいたい、新聞を隅から隅へと読むというのは不健全だと思う。政治にも経済にも社会にもスポーツにもひとしく興味を持ち、同じように関与しながら生きているわけがないじゃないか。いやそういう人もいるのかもしれないが、ぼくは違う。要は、読んでいる部分の半分くらいは、岡目八目で面白半分に首を突っ込んでいるだけだ。
面白半分ならまだいい。
見て、考えて、不快になり、怒りを爆発させるような情報を、わざわざ拾いに行ってしまうときがある。
どうなのか、と思う。
つい、社会面を見てひさんな事件のその後を追ってしまったり、政治面をみて世論ならぬ社論に腹を立てたり、しなくてもいいことをする。
ツイッターで少しでも暗いニュースや人への罵倒をつぶやいている人を見かけたら、即刻でミュートすればいいかなとも思ったけど、気がついたらどのツイートをミュートするか悩みつつ、今日もどれかをミュートしなきゃという義務感にかられて、ミュートするツイートを探して回ったりしている。
負が流れてきたときに、何も感じず、何も反応せずにいるにはどうしたらいいのか。
負と無は響きが似ている。無として扱えばよいのか。
こう考えたらよいのか、こういうとらえ方をすればよいのか、なるほどなるほど。
では、次に負が流れてきたら、やってみよう。さあ、負はいつ流れてくるかな。負はまだかな。
また、くり返しだ。きりがないのである。
だからしきりにだじゃれを考える。脳が止まっている時にはすかさず下ネタだじゃれ親父ギャグの類いで、脳に張り巡らされたパイプの中にとにかく循環液を流し込んでしまう。余計な思考が紛れ込まないように。思い悩まないために。
いかに悩まないかが大切で、悩まずに生きるのは難しく、できれば悩まないための道を見つけ出そうと、毎日悩んでしまうのがいやだから、悩むことなくスキマをだじゃれで埋める。
そういう暮らしの先に出てきた仕事の結晶が、ときおり、中年のだじゃれの感性を帯びている時があり、あっ、混線しちゃったなと思う一方、もし紛れ込んでいたのがだじゃれではなく、陰惨なニュースや頭にくる論戦のたぐいだったら、ぼくはきっとこの仕事、めちゃくちゃにいやになったんだろうなあと、胸をなで下ろしたりする。