とんでもない病理診断、というのを見ることも、ある。
なぜこれを見逃したのだろう、どうしてこれをこのように評価したのだろう、いくら論理的に考えても、答えはない。だって、かの人の診断は、そもそも一から十まで間違っていて、整合性などとりようがないからだ。
人間の間違いにもいろいろある。
多くの人が陥りがちな錯覚。
知らないと判断をあやまってしまう落とし穴。
さまざまな理由が積み重なり、間違っても仕方のない状況に陥ってしまうこともある。
そして、これらと同じくらいの頻度で、
「なぜ間違ったのか説明がつかない。誰が見ても間違いなのに、なんなら、時間とタイミングを変えれば本人も間違いだと気づくだろうに、間違ってしまう」ということもある。
こればかりは、ほんとうに、はたから見ていて、間違いの構造が解明できない。
なんでこんな間違いをしたんだろう。
思わず声に出してしまうこともある。
いや、そもそも、人間というのは、そういう生き物なのだ。
誰もが赤だと思っている色を、光の加減でオレンジに見間違えたり、目が疲れていて紫に見間違えたりすることばかりが、間違いではない。
赤を黒に見間違う。赤を緑に見間違う。
赤を透明に見間違うことすらある。それが、ミスというものなのだ。
今よりもっとずっと若かったころ、「先輩」と言って差し支えないくらいの年齢差しかない病理医が、信じられないような間違いをおかすシーンを目の当たりにして、「なにやってんだ」「勉強不足だ」などと、なじったこともある。
しかし、今は、ただひたすらに怖い。
いつ、自分が、「誰が見たとしても、言い訳ができないくらい、完膚なきまでに、間違えてしまう」かは、わからないのだ。それが怖い。
飛行機事故のときに、ブラックボックスとかいう箱を回収して、飛行機が落ちる前にどんなことがあったのかをことこまかに解析するという作業があるのだという。
人間は、誰かのミスや、誰かが陥った落とし穴を解析することで、その人の揚げ足をとるでもなく、ただひたすらに、「二度と繰り返すまい」と反省を深めていくことができる。
数々の「誤診例」を集めて、ぼくは、自分の恐怖を高めていく。
Z会という通信教育サービスが、かつて、「不合格体験記」というのを特集していた。
合格体験記のような成功の記録よりも、失敗した人から学ぶほうが、役に立つことだってある。
そういう理屈ではじめられた企画だったはずだ。
ぼくはこの企画が大好きだった。
そして、いまだに、「病理診断医として不合格なミス」を集めてさまよっている。
いつか、自分が、取り返しのつかないミスをする日がこないことを願って、後ろ暗く、不合格体験記を探し求めている。
できれば、自分の間違いは、取り返しがつく段階で気づいておきたいものだなあ、と、いつも思っている。