2017年6月30日金曜日

病理の話(95)

将来、ありとあらゆる「遺伝子変異」を瞬間的に検査できるようになると、すべてのがん診療が自動で行えるようになる……。

がん細胞から遺伝子を抽出して解析することで、それぞれに一番あう抗がん剤を選んでがんを叩けばいいので、今ある治療が大きく変わる……。

これらは半分ほんとうなのだが、残りの半分は、「おおげさ」と「夢みすぎ」と「まちがい」のブレンドなのである。



たとえば、そこらへんで元気に遊んでいる子供を適当にみつくろって、へんとうせん(扁桃)から細胞を採ってくると、ときどき、「遺伝子の異常」が見つかることがある。

生体内には「遺伝子の異常」……すなわち、体のあちこちを制御するプログラムのエラーというのは、思ったより多く存在している。

その異常が、実際に人体に害を及ぼすかどうかは、ケースバイケースである。遺伝子に異常がある細胞は常にがんであるかというと、まったくそんなことはない。

例えば……がん100例を集めてきて、しょっちゅう見つかる遺伝子変異があったとして。その遺伝子変異を、今あらたに見つけてきた細胞に見出した。じゃあその細胞はがんであると確定できるか?

できないのである。がんではないことも十分にありえる。というか、がんでないことの方が多いかも知れない。

 →(1)遺伝子異常イコールがんではない。

仮に、「ある遺伝子変異があると、100%がん細胞であると言える」という変異が見つかったとする。たとえば、胃で。

しかし、その遺伝子変異は、胃ではがん細胞の形成に関わるかもしれないが、肝臓では関わらないとか、脳ではがん細胞になるためのキーなのだが、肺では全く関係ないとかいうように、臓器が変わると重要性も変わってしまう。

 →(2)遺伝子異常は臓器や細胞ごとに意味合いと種類が異なる。

がん、と言っても一枚岩ではない。

犯罪者、と言っても、コソ泥もいれば痴漢もいれば殺人犯もいるように。

がん、と言ってもいろいろなのである。

あるがんは、人を殺すだけ大きくなるのに200年かかるかもしれない。

 →(3)仮に遺伝子変異があるがんだと診断しても、そのがん自体にバリエーションが多すぎる。



つまり……「遺伝子変異」というのは疾病のキモではあるが、疾病そのものとイコールで結べないのだ。

今、患者の状態がどうであるか、というのを考えるときに、遺伝子だけ採ってきて調べればわかる、というのは今のところ完全に幻想である。


脳腫瘍や肺癌など、一部の臓器では、遺伝子変異などを細かく調べることで、病理診断よりも正確にがんの挙動を予測できる、というのが現代の常識である。

しかし、これは医療者にとっては当たり前なので言及されていないだけなのだが、実は「遺伝子変異などを調べる前に、無意識のうちに医療者は、がんの広がり方、転移している場所、患者の体力、背景にもっている疾患などを頭に入れて、その上で遺伝子変異を便利使いしているにすぎない」のである。

そこにいる患者の顔も見ず、お腹に手も当てず、画像検索も行わず、顕微鏡でがんである確認もせずに、「ただ遺伝子だけを採ってきてすべてがわかった」なんてことはないのだ。

遺伝子変異だけではステージ確定は不可能である。

遺伝子変異だけでは化学療法や手術導入のための患者の体力評価もできない。

遺伝子変異だけではそもそもがんと確定できない。




……ぼくらはそれをわかった上で、その上で、

「うおー遺伝子変異ぜんぶ見られる世の中めっちゃ早くきてほしい……超期待してんだけど……!」

となっているのだ。そこに、「遺伝子変異が全部わかるようになったら病理診断なんて要らなくなるよな」みたいな見通しは、残念ながら(?)、ないのである。

2017年6月29日木曜日

ブッチャーズにも似たタイトルの超名曲があります

自己啓発本がすごいなあと思うのは、すでにあるものごとの「見方を変える」とか「閾値の設定をしなおす」だけで新しいココロモチになることができるよ、と言っちゃうところだ。

つまりはコストがかかんないんだよな。何かをクリエイトするわけでもなく、何かを研磨するわけでもなく、とにかく「線を引く場所」を変えるだけでいいんだから。

そりゃあウケるわ……金払って読みたい人も出るわ……。



と、ここまで考えて、「あれ、コストかかってんじゃん」となる。



「買ったところで、気の持ちようしか書いていない本」を、「買ってでも」、「自分が将来コストをかけずにうまくやる方法」を、「知りたい」。

ここで金が回るんだな。うーん。



「人の経験を取り入れる」のに、どれだけの金がかかるんだろう。

話を聞くだけならタダ?

「今ある状態を少しでもらくに、たのしく、うれしく受け止めるための考え方を身につける」のに、いくらコストをかけるのがいいのだろう。

いい人がたまたま周りにいればラッキー?



魚戸おさむ「はっぴーえんど」というマンガを、例えばそういう視点で読んでみるとよいのではないか、と思う。

このマンガはあるいは金字塔になるかもしれないので、今から金を払って読み始めておいて欲しい。


「はっぴーえんど 1  (ビッグコミックス)   魚戸 おさむ」 https://www.amazon.co.jp/dp/4091895077/ref=cm_sw_r_tw_dp_x_R0gtzbW0RWV2K


2017年6月28日水曜日

病理の話(94)

ほんとうに病理医は足りないのだろうか、ということを最近考える。

そもそも、世の中に「足りている職業」なんてあるのだろうか。

どこだって人手不足である。

医療業界で、スタッフ数が潤沢で、診断も治療も最新・最高を常に維持できていて、患者もみんな満足してニコニコしている場所なんて、どれだけあるのだろうか。

夜昼問わず尽力する善意の一人によって成り立っている救急医療現場。次から次へと訴訟のリスクを抱える出産現場。神の腕を求めて殺到する患者。学会出張に行くと閉じられる外来。年年歳歳右肩上がりに増える申し送り事項。払われたくない金。病気は医者の都合を待ってくれない。病気は科学の進歩を待ってくれない。足りない人。足りない科学。足りない幸福……。




病理医が足りないんじゃない、人はそもそも全部足りない。




今、病理医は全国に2300人、うち半分強が50代後半以上であり、半分強が大学と紐づけされており、病理診断に専任する人よりも大学の研究業務と兼任する人の方が多く……。

このままでは病理診断は立ち行かなくなる。すべての医療が止まる……。足りないから、ぜひ、病理医になってくれ。この国の医療を救ってくれ……。



どこか空々しい。

どこだって誰だって足りないのに。

病理がなくなったからって、医療が全部止まるわけじゃないのに。

それは心臓外科医であっても産婦人科医であってもリハビリ医であっても緩和ケア医であっても一緒。

ほかの医療者と同じように、

「病理医がいないことで、誰かがちょっとだけ苦労したり、誰かがちょっとだけ理想から遠ざかる場所が増える」。

国民の幸せの総量がちょっとだけ減り、どこかのがん患者がちょっとだけ早く死んだり、どこかの病人がちょっとだけ診断が遅れて人生をちょっとだけ悪くする。


「ちょっとだけ」だ。


誰かの人生を大きく動かす、ちょっとだ。やじろべえを最後に倒す、指の一押しみたいなものである。




ぼくは北海道という田舎にいるから、田舎のことにとても関心があるけれど、北海道のあちこち、本当にあちこちに、

「病理医がいなくて、病理診断が破綻している病院」

がある。いっぱいある。すでに、ある。

ではそこでは医療は終わっているのか? そんなことはない。もちろん、病理医がいる病院と比べると、ちょっとだけ不便で、ちょっとだけ高次医療ができなくて、ちょっとだけ患者の満足度も落ちるかもしれないけれど。

産婦人科が撤退した地方病院。救急医がみんな引き上げてしまった公営病院。医局に切られて外科医が足りなくなった中核病院。

起こっていることはすべて同じである。病理医だけが足りないわけじゃない。

医療は常に、充足していない。




だからぼくは言いたいのだ、病理医が足りないからみんな病理医になってくれではなく、この仕事にはやりがいがあるから、君が病理医になることで、ちょっとだけ医療がよくなると思うから、もちろん、君は何になっても、ちょっとだけ世の中をよくできると思うけど、それは病理であっても同じことなのだ、だから、病理ってのはけっこう働き甲斐があるいい仕事だから、

病理医になってみたらどうか。

と。

ぼくは、「病理医は足りていません」と言いながら、病理のリクルートをするやり方を、もはや、「筋が悪い」とすら思い始めた。

自分がかつて使っていたフレーズでも、ある。反省ばかりの毎日だ。

2017年6月27日火曜日

ちからのたてが手に入るとMP節約にめざめる

はぐれメタルを倒すと経験値が40200くらいもらえるんだけど、子供心に、たまたまかいしんのいちげきが1回出ただけで40200というのは多すぎるのではないかと思っていた。

けれどそういう話は現実世界にもいっぱいあるなあ、と思わなくもない。



たとえばはぐれメタルと戦いの最中に、いつしか好敵手としての間柄をお互いが意識しはじめ、敵味方を越えた「戦うもの同士、相通じるもの」が育まれ、必殺の一手が伯仲した瞬間に間合いをとって、お互いに

「お前、やるじゃないか」

「名前を聞いておこう」

「お前とはまた会う気がする」

「今度は俺に当てられるといいな」

「お互い様だ」

なんて会話が生まれたら、これはもう経験値としては80400くらいもらっても良いのではないか、と思うんだけど、実際には倒してないから経験値ゼロなのである。

こういう話も現実世界にいっぱいある気がする。



経験値を数値化するからいかんのか。

経験値を散文化してしまうとどうなるか。それはすなわち「おりびあののろい」に対する「あいのおもいで」である。本人たちしかわからない。先にあるのは呪いの消滅と周りのキョトンである。

やっぱりある程度の数値化は必要なのだろう。



そういえば経験値を溜めてレベルが上がっても、ぼくはそこまでうれしくなかったな。

どちらかというと、メラミを覚えたとか、ベホマラーを覚えたとか、そういう「レベルアップのついでに何か新しいまほうを覚えたとき」のほうが、はるかにうれしかった。

こういう話こそ現実世界に満ちあふれている気はする。



「ぶとうか」や「せんし」でいるよりも、「まほうつかい」や「けんじゃ」でいる方が、レベルアップに伴う快感は大きかった。

だから、一度ぶとうかとしてすばやさを上げまくったあとで転職するなら、まほうつかいがいい。

ダーマの周りにいるザコを殴るとすぐに数レベル上がる。

ギラもイオも瞬間的に覚えられる。

あれは正直、快感だった。しかし転職してから長い間、他のメンバーとのレベル差に苦しみ、敵のベギラマでひとりだけ瀕死になったりするのもセットである。

こういう話も、現実世界には多く見受けられる。




「だいじなことはみんなゲームが教えてくれた」みたいなまとめをタイトルに放つブログが嫌いなのだが、だいじなものをなんでも自分の理解が及ぶ話題にすりかえて語ってしまうやり方を、ぼく自身もよくやってしまう。

自分の言いたいことを何かに代わりにしゃべらせたり、自分の言いたいことを最初から最後まで例え話であてはめたりするとき、最初から最後まで統一した物言いができると、なんだかいい気持ちになってしまう。途中から、「それ、言いたいだけやろ」とつっこまれる。

統一した世界観の最後にオチをつけるのは難しい。

そこまでの話の流れを壊さず、かつ、長文の締めくくりにふさわしい、圧倒的な説得力のあるフレーズで、読む者にぐっと衝撃を与えなければいけないからだ。

ギガデイン? ただ攻撃力が強いだけだ。

ベホマズン? MP消費量が多すぎてどっちらけである。

「ドラクエ例え話」では何がオチになるんだろう。



パルプンテか。パルプンテなんだろうな。ああ、なんだかわかるなあ、とすごく納得したのである。どこかでおさらのわれるおとがした。

2017年6月26日月曜日

病理の話(93)

「じゃじゃ馬グルーミン☆UP」というマンガがあるのだが、主人公である駿平が父親に向かって、

「父さんの仕事なんか、書類を右から左に動かすだけの仕事じゃないか」

みたいなことを言って、母親にひっぱたかれる、というシーンがあった。

ぼくはあのシーンがずっと頭に引っかかっているのだ。

子供から見ると、事務作業、頭脳労働の一部は、駿平のように「書類を右から左へさばくだけ」のように思われているのではないか……。

病理診断というのはデスクワークの本流みたいなもので、書類仕事であり、パソコン仕事である。勉強して、調査して、記載して、確認を受けて、連絡をして、報告をして、相談をする……。

この仕事、そうだよ、「右から左へ」の類いではあるよな。



書類を右から左にさばくにもスキルが必要だ、と言ったところで、スキルが必要とかそういう話ではなく、やりがいがあるのか、やっていておもしろいのか、どうなんだ、と、余計に疑義の詰まった目で見据えられることになるだろう。

さて、あのとき、駿平の父さんは、なんと言ったんだったか。



(そんな風に見えてるのか)とだけつぶやいて、特に反論などはしなかったように、思う。







ドライブが好きという人にも何種類かある。

・運転そのものが好きだという人。

・自分で好きなように居場所を決められる、行き先を自由に変えられるのが好きだという人。

・運転自体はまあどうでもよいのだが遠くに行くのが好きなのだという人。

・車の中がなんとなく落ち着くのだという人。



仕事も実は一緒であり、デスクワークが好きだという人にも何種類かいて、

・デスクワークそのものが好きだという人。

・デスクワークの結果、達成される、なにがしかを見るのが好きだという人。

・デスクにいることにこだわりはないのだが、頭脳を使うのが好きだという人。

・デスクがなんとなく落ち着くのだという人。

などがいる。



「書類を右から左にさばくだけ」というのは、「運転なんて右足を踏んだりやめたりしながら、手でわっかをくるくる回すだけだろう」というのと同じなので……。

ドライブが好きな人に、「そのハンドルくるくるの何が楽しいの」という質問をしないのと一緒で、デスクワークが気に入っている人に「その書類を動かすのの何が楽しいの」と言っても、答えは返ってこないのではないか、と思う。




ちなみにぼくはたまっているプレパラートを次から次へと「診断済み」の棚にぶちこんでいくとき、ハナクソがごっそりとれたような快感を覚えるタイプだが、ハンドルをくるくる回すことにはそれほど快感を覚えない。

2017年6月23日金曜日

山廃という言葉もあったではないか

多くのおじさんがツイッターを発信に使い続けている中、10代の人間はツイッターアカウントに鍵をかけて、主に芸能情報などのニュースを集める、すなわち受信に使っているのだという。

ツイッターというツールは情報の受信にこそ向いているようだ、というのは、かつてNHK_PR1号が書いていた。

ぼくの実感としても、ツイッターは、情報収集にこそ向いている。それも「世の中からこれがよいと勧められる情報」ではなく、「自分でこれがよいとジャンルを偏らせた情報」を集めるのに便利だ。

そういうことに、おじさんたちが気づくのに10年ほどかかったし、まだ気づききっていない。

けれど、10代の人間はすでに、誰から教わるでもなく、「効率的なSNSの使い方」をしている。

発信と自己顕示はインスタ、受信はツイッター。極めて合理的だと思う。若者の適応力というのはすばらしい。




と、ここまで書いて、そしたら、10代の人間が受信するための情報は誰が発信するのか、という話になり、10代の受け手がいっぱいいるツイッターではおっさんが送信役に回り、10代の送り手がいっぱいいるインスタグラムではおっさんが受信役に回る、これこそが需要と供給の一致ではないか、という仮説を打ち立てる。

セッツァー風に言うと「大きなミステイク」であることにすぐ気づく。

10代の人間が受け取りたい情報は、おっさんからの情報ではない。

10代の人間が自分を見せたいターゲットは、おっさんの目ではない。

需要と供給はまったく一致していない。仮説は棄却される。

おっさんであるところのぼくは、誰に向けて情報を発信し、誰から情報を受け取れば、世間に迷惑をかけずにやっていけるだろうか。








ぼくが日頃エアリプでやりとりしている相手の99割が、おっさんである(やりとり相手がすべておっさん+その9倍くらい周りにもおっさんがいる、の意味)。

「SNSおっさん」は、狭いクラスタの中で、有象無象のバクテリアにまみれて、その形態をじわじわ変えていく存在である。人の役に立つ変化だった場合には「発酵」、人の役に立たず害をもたらす変化だった場合には「腐敗」と呼ぶ。

火入れ(炎上)をすると発酵が止まる。まるで日本酒のようだ。

アルコール添加しても発酵が止まる。まるで日本酒のようだ。

お酒の発酵には適度な管理と行政の締め付け、職人の目、運、天候、水、さらに、半可通的な買い手・飲み手が大量に必要となる。

日本酒のブームは来たり来なかったりする。ビールには勝てない。

おっさんは酒なのである。10代にはおすすめできない。




ぼくは普段から、「昔にもどりたい」とは全く思わない人間なのだが、今ひさびさに、10代に戻りたいかなあと思った。

10代に戻って、真新しい気持ちで、ツイッターを使い始めてみたい。

そしたらぼくらおっさんは、どのように見えるのだろうか。

赤ら顔、千鳥足、無色透明な、くさい存在。ときどき楽しそうにしている。

2017年6月22日木曜日

病理の話(92)

病理診断では、細胞の顔付きを見て、病気の正体をあばく、という。

しかし、この言葉は、正確ではない。いくつか例をあげて説明する。




1.患者さんが病院に来た、50歳代の女性である、しこりが胸にある、画像ではしこりがいびつに見える、周りにしみ込んでいるように見える、だから臨床医は「がんの可能性が高い」と考えている。

2.そこで胸のしこりから細胞を採る。出てきた細胞が「悪性」としての性質を持っている。

3.病理の結果は、臨床情報が強く疑っている「乳がん」を支持する。だから、乳がんであると確定診断した。



以上の文章を読んで、「おお、病理のおかげで確定診断が出せた」という感想が出る。……9割は間違っていないのだが、1割、間違っている。

実は、確定診断の過程において、病理で細胞をみたことが「決め手」にはなっているのだが、「それが全て」ではないのである。

別の例を出そう。



1.患者さんが病院に来た、50歳代の男性である、腕が腫れている、画像では皮膚の下のほうにしこりがある、いびつである、周りにしみ込んでいるように見える、だから臨床医はがんの可能性があると考えている。

2.腕のしこりから組織を採取する。細胞は、「悪性」の性質を示している。

3.では、皮膚の下から出た「がん」だと確定してよいだろうか?


さきほどの乳腺のときと話はとても似ているのだが、違いがある。

臨床医が「がん」をどれだけ強く疑っているかが、違う。

乳腺の例では、臨床医は乳がんを一番強く疑っていた。

しかし、腕の例では、臨床医は実はひそかに「結節性筋膜炎」の可能性を頭に入れている。

結節性筋膜炎という病気は少し珍しいのだが、がんではないのに、細胞の顔付きが妙に「がんっぽく見えることがある」という特徴を示す。

つまりは、細胞を見て「なんか悪そうな細胞だな」と思ったからと言って、すぐに「がん(軟部の悪性腫瘍)です」と診断してはいけない。



臨床医も、病理医も、どちらも!

見るべきは細胞の顔付きだけではない。

病気が出た場所、患者の年齢、病気の見た目、症状、統計学的な知識などから、「この病気とこの病気が疑わしい」と、ただしく「この人にとって、ありえそうな病気」を列挙した後に、はじめて細胞の情報を加味する。

加味するというのがポイントだ。




臨床情報というのは食材である。肉であり野菜である。正しくカットして熱を加えて、おいしい料理(医療)に仕立てていく。

料理の最中に、例えば味を際立たせるため、例えば味をしみ込ませるため、例えば料理の完成度を高めるために、塩こしょうをはじめとする多くの調味料を、「加味」する。

病理の細胞形態学というのは、この、調味料のような役割をしている。

食材そのものではない。

食材の性質を見極めてはじめて、ここで塩を入れると味がひきしまるとか、ここで酒を加えると肉がやわらかくなるとかいった、調味料の利点を発揮できる。

加味するのがポイントだ。加味の仕方があるのだ。



細胞だけ見てわかるというのは幻想である。

病理医のやっていることは、「細胞の理(ことわり)」を見ることではない。

「病気の理(ことわり)」を診ることだ。

ぼくらはみな、細胞だけではなく、臨床そのものを診る。その上で、「調味料には誰よりも詳しくある」というのが職務である。



このことを知らずに病理と付き合う臨床医は、「チャーハンなんて最後に塩こしょうふれば食えるじゃん」的なニュアンスで、「病理はまあ細胞だけ見てくれればいいからさ」などという。

このことを知らずに診断を出す病理医は、「ぼくらに食材のこと聞かれてもわからんけど、クレイジーソルトかけとけばだいたい食えるよ」などという。



料理を知らずに病理を語るのは、よくない。

2017年6月21日水曜日

GATALI

論文の書き方、という話をしていた。

ここで、話の大筋を「木の幹」に例え、枝分かれする関連事項を「枝」や「葉」に例える。

優れた著者の書く論文は、木の根元からこずえに向かって順番に話を進めていくのだという。一貫して木の幹が把握できるように、枝葉末節にこだわりすぎないように。分岐してもいずれは本幹に戻ってくるように、語る。

一方、日本人に多い「話がとっちらかって何を書いているのかわからない書き方」では、枝葉をいちいち丹念に書きすぎてしまうせいで、なかなか幹が見えてこない、というのだ。


「話の木」を、下から上に登っていくか、上から見下ろしてあちこち浮気しながら降りていくか、という違いだともいえる。

学術論文では、幹の太い方からきちんと登っていくほうが読みやすい。



なるほどなあ、と思い当たる。

ぼくは、わかりにくい語り方をしてしまうタイプだ。



論文には限らない。

日常の、相手のいる会話で、ぼくはしばしば、長尺の、寄り道の多い語り方をする。

以前に先輩にもたしなめられたことがあった。いっちーの話は、オチまでが長いよと。

枝葉を語る時間が長すぎる。

この語り口、いったい何に影響されているんだろうなあ、と考えた。



……落語? 漫談? 水曜どうでしょう……?



へたくそなラジオDJのようだなあと思った。視聴者はいる、意識もしている、しかし相槌を求めずに、自分の言葉ですべての展開をいったん終えてしまう。そして、10分以上語ったあとで、「ではお手紙をいくつか。」と、もらった感想に対してリアクションを述べる。

ほんとうに優秀なラジオDJは、独白であっても、センテンス1つ1つが短い。

そこに声はなくとも、視聴者が合間合間で相槌を打てるように、やりとりをしうるように、間が調整されている。



ツイートも一緒だ。ツイッターはラジオに似ている……。



ぼくはこの「水曜どうでしょう型漫談形式」の会話をこれからも続けていくのだろうか、ということを考えていた。

そうだな、続けるのかもしれないな。

だからツイッターも続けているのだろうな。



ほんとうに視聴率の高いTV番組は、ひとつの会話が1分続かない。極めて短くパックされたボケ・ツッコミが、字幕と共に短時間に叩き込まれる。

けれど、ぼくはどうも、そういう、「お互いが最高に楽しい会話」というのが、いまいち苦手なようで、深夜2時半のFMラジオから聞こえてくる環境音楽みたいな実のない独りガタリの方に、いい年してあこがれているのだ。




HiGEというバンドのボーカル、天才・須藤寿の、ソロプロジェクトの名前は、GATALI と言った。

どうもぼくは、売れそうで売れない、ニッチを攻める、忘れられた王道のような存在に、惹かれる傾向がある、

2017年6月20日火曜日

病理の話(91)

プレパラートで病気の細胞をみるとすべてがわかるのか、というと、そうではない。

病理組織診断がもっとも苦手とするのは、ダイナミズムの診断……「血流」の診断である。

病気を顕微鏡でみるとき、プレパラートには、ホルマリンという液体で固定され、パラフィンという物体を浸透させた、4μmという激薄ペラペラの組織が乗っている。

この組織は、もちろん、既に生きてはいない。生体内にあったときとほとんど同じ「配列」で、細胞が乗っかっているけれど、これらの細胞はもう活動していない。そして、もちろん、血流も流れていない。

これが実はけっこう問題なのである。



現代の画像診断の半分くらいは、「血流」というダイナミズムを用いて診断しているのだ。CTにもMRIにも超音波にも、さまざまな「造影剤」が用いられ、病気の中にどれくらい血液が入り込んでいるのか、どこにどのように血が分布するのか、使い終わった血液がどのように排出されるのかという、「血行動態」を細かく診断する。

たとえば肝臓ならば、肝細胞癌というがんは

・すごいスピードで動脈から病変の中に血液が流れ込み
・すごいスピードで病変から血液が外ににじみ出てくる

ということがわかっている。これに対し、同じ肝臓のがんであっても肝内胆管癌というがんの場合は

・じわじわと病変のふちから内部に血液がしみ込み
・そのまま病変の中でしばらく滞留、あるいは拡散して、なかなか出てこない

という動態を示す(ざっくり書きました。ほんとはもっともっと細かい)。

これらの違いによって、放射線科医や内科医、外科医は、肝臓のがんがどのような性質であるかを予測して治療に臨む。

いざ、採ってきた病変を顕微鏡で見る。細胞を見て、これは肝細胞癌だな、とか、これは肝内胆管癌だな、と、病理医が診断を下す。

そこで臨床医から電話がかかってくる。

「先生、あのね、この人、肝細胞癌だろうなと思って手術したんですけど、病理では肝内胆管癌だと診断されました。でも、画像でみると、病気の中に血液がすごく早く入り込んでいるんですよ。なんででしょう? どうして、肝細胞癌っぽく見えたんだと思いますか?」

ぼくは考える。血流か。

顕微鏡を見る。

……そこには、もはや、血流はない。

プレパラートの中では時間が止まっているのだ。「流れ」を見ることは極めて難しい。

しょうがないので、血管の分布、配置、太さ、性状を調べて、「おそらく生体内ではここにこうやって血液が流れていたんだろうなあ」という推測を繰り返す。



考古学の世界では、地面を掘り返したら穴の痕跡が見つかって、そこから竪穴式住居の存在に気づく……みたいな推測を行う。すでに時の彼方に消えてしまっている「過去」を推測するには、極めて精緻な推測手法と、言語化しきれない勘、そして語り部の説得力とが必要なのだ。

病理で血流をみるとは、すなわち、そういうことなのである。ぼくがしばしば、主に人文系の研究者が用いる論説形成法である「アブダクション(仮説形成法)」という言葉に敏感に反応するのも、病理にどこか考古学的な香りを感じているからなのかもしれない。

2017年6月19日月曜日

ちぬられた、と書くとちょっとかわいい

思えば自分のルーツとなっている音楽を探すと、それはたいてい、大学生の頃に聴いた……いや、正確には「見た」ものに端を発している。

大学3年生の夏までの間、ぼくは実家から大学に通っていた。実家には年老いた祖母がいて、テレビが好きな祖母のために父はケーブルテレビを導入した。

ケーブルテレビではちょっとエロい映画などやっているかと思ったが、そういうのは追加料金を払わないと見ることができなかった。

欧米のサッカーなどを見て悦に入ろうと思ったが、同級生や先輩にサッカーオタクがいて、バルセロナをすぐバルサと発音してイキるのを見ていると、海外サッカーにのめり込むのもシャクに思えた。

だから音楽を見た。プロモーション・ビデオ(PV)というのをそこで初めて知った。

宇多田ヒカル、ドラゴンアッシュ、BONNIE PINK、椎名林檎などが次々といかしたPVを発表していた時代、CDを買わなくても音楽が聴けて、見られることにぼくは興奮した。

あるとき、「ゆらゆら帝国」なるバンドや、「NUMBER GIRL」なるバンドを見て、ぼくはびっくりした。こいつら歌べつにうまくはないよな。でもかっこいい。

ぼくはバンドミュージックの世界に、映像から入った。ライブハウスから入るのが本当はかっこよかったんだろうけれど。



YouTubeやSNSなどで、いくらでも無料のプロモを見ることができるようになったぼくは、音楽にしても書籍にしても、かつてと同じように「無料」という門戸から入って、知り、買う……。

ケーブルテレビにも視聴料がかかっていたから、正確には無料じゃないんだけど。

ま、ネットだって使用料を払っているわけで……と、エクスキューズを取り回す。

同じ、同じ。



ただ、ひとつ、違うこともある。

昔のPVは、検索して見たいモノを見るのではなく、向こうが流してくれるものを順番に見ていたから、H jungle with Tにしても、モーニング娘。にしても、いつしか歌詞を暗記してしまうくらいに、よく見た。

今は、ぼくは、検索をするので、見たいものしか見なくなってしまった。

能動的に生きられるようになったのだ。

いいことであるけれど。

能動的な情報収集は、受動的な情報収集には、「広さ」という意味ではかなわない。押しつけられた情報の中に、輝く「まさかの出会い」があった。

「深さ」ばかりを知り続ける毎日がちょっとずついやになってきてはいる。




結果、ぼくは、今、ラジオをよく聴くようになった。

ラジオでは、聴きたくもない曲が、聴きたい曲と共に、ずっと流れている。これは本当に効率が悪くて、ちっとも情報が深まらない。

けれど、その広さが心地よくなってきたのだった。



昔、NHK_PR1号が、「ツイッターはラジオに似ている」的なことを書いていた。その意味は、「DJと視聴者とのやりとり、リスナーからのお手紙をDJが読む的な関係」にあったのだけれど、ぼくは今、別の意味で、「ツイッターをラジオとして使うとおもしろい」ように思い始めた。

リストにこだわりすぎるのをやめようと思う。

もっとタイムライン全体をぼうっと眺めてみようと思う。



「思いも寄らなかった領域との出会い」が、自分の20年後を支えているかもしれない。例えばぼくにとって、Bloodthirsty butchersというバンドとの出会いは、まさにそうだった。

ネット検索でブッチャーズに出会ったところで、まず、いい曲だなんて思わないだろう。ぼくはケーブルテレビが暴力的に押しつけてきたブッチャーズのおかげで、今、心の一部を保っているのだ。

2017年6月16日金曜日

病理の話(90)

がん、とひと言にまとめても、胃がんと肝臓がんと血液のがんと皮膚がんでは、細胞から、しみこみ方から、何もかも違うのである。

「がんは命に関わる」という共通点がある……けれど、逆にいうと、それくらいしか共通点がない。

「食べ物は食べられる」くらいの意味でしかない。リンゴはアップルパイになるけど、だんごはアップルパイにはできないのだ。名前はほとんど一緒だけれども。




似たようなことを、病理の視点から、よく考える。考えてくれと頼まれる。




たとえば、「肝炎ウイルス」というのがある。B型肝炎とかC型肝炎という言葉を聞いたことがある人もいるだろう。

これらに感染すると、肝臓に「炎症」という名の、どったんばったん大騒ぎが起こる。

肝臓の細胞が壊されて、すかさず体はそこを修復しようとがんばる。

破壊と再生が繰り返される。すると、肝臓は、だんだん荒廃してしまう。端的に言えば、「硬くなる」のだ。線維が増えて硬くなる。

ちょうど、傷跡のかさぶたをめくり続けていると、そこがだんだん硬くなって、痕が残ってしまうように。線維化(せんいか)という現象が起こる。

完全に荒廃してしまった肝臓を、「硬変肝」と呼ぶ。名称としては「肝硬変(かんこうへん)」の方がよく用いられる。



さて、先日より取り組んでいるテーマはこの肝炎とか肝硬変だ。

実は、肝硬変というのはすべてウイルスが原因で引き起こされるわけではない。

脂肪沈着・脂肪肝が原因の、肝硬変というのがある。

自己免疫性肝炎という病気によって肝硬変になることもある。

これらは、ぜんぶ、「肝臓が硬くなり、荒廃してしまう」のだけれども……とても細かい話をすると、「硬くなる様式が違う」のである。

具体的には。

ウイルス性肝炎、特にC型肝炎のときには、肝臓の中に、ビルの鉄骨みたいなぶっとい線維がばんばん張り巡らされる。

これに対して、脂肪肝とか脂肪沈着が原因の場合には、線維が張り巡らされるというのは一緒なんだけれども、「ルパン三世が金庫室に忍び込むときに赤外線のセンサーが縦横無尽に行き渡っているようなイメージ」の線維化が起こる。

線維の太さが異なるのである。



ひと言に「硬くなる」と言っても、鉄骨ばんばんと、赤外線センサーびゅんびゅんとでは、その硬さのイメージが違う。触ってみても違う。超音波で見ても違う。血液検査も微妙に異なってくる。

こう考えてみれば当たり前のことなんだけど……。

これらの違いを、しっかりイメージするというのが、実は極めて難しい。


その難しい「違い」を、言葉を並べて延々と説明するよりも、もっと簡単に見極める方法がある。

それが「顕微鏡で肝臓をみてみる」ということなのだ。



肝臓すべてを顕微鏡でくまなく見る必要は無い。肝臓の一部、60000分の1くらいのわずかな量を、「味噌汁の味見をするように」ちょっとだけ採ってきて、顕微鏡で見る。

するとそこには、鉄骨とか鉄骨になりかけているやつ、赤外線ビームとかビーム寸前のやつ、などが、ちらほら見えてくる、という寸法である。



病理とは「やまいのことわり」と書く。それだけに、「なんで? どうして? どこが違うの?」のような臨床の質問(クリニカルクエスチョン)に、なんとか答えることができる……。

できたらいいな……

できるかもしれない……

まちょっと覚悟はしておけ、ということになる。

2017年6月15日木曜日

途切れた日の話

書き終わったブログの記事をまるっと消した。

タイトルは「途切れた日の話」で、今年のはじめころにぼくがすっかりやられてしまったときのことを書いていた。

けれど、書き終えて、読み終わって、ちっともおもしろくなかった。だから消してしまった。


もう20年ほど前になるが、自分でホームページを作っていたころは、書いたものはすべてネットに載せていた。妙に浮かれた日もあれば、中二病そのものの落ち込み方をした記事もあったと思う。

読み返すことはほとんどなかった。バックナンバーだけがどんどんたまっていった。

300、500と記事が増えて、700くらいになったころ、大学院に入ったあたりで、更新がなかなかできない日が続いた。そして、あるとき、自分でもすっかり忘れてしまっていた記事を、いちからすべて読み直してみようと思いついた。

20個くらい読んでやめてしまった。

ああ、何かを書き続けて、それがログとしてずっと世の中に残って、それでもまだ読まれ続けている人と、自分とがどう違うのだろう、そう考えて、思い至ることがあった。



暗すぎるとだめだな。

明るすぎてもだめだけど。

ほどよい中間の、というか、中盤をしっかり守るボランチみたいな文章をきちんと書いている人の話は、いつ振り返っても、どこからでも読み直すことができて、その都度新しい発見があるけれど。

どこかに向かって尖ろう、尖ろうとするあまり、横も後ろもなんにも見ていない、二世代前のVRみたいな残念な一人称視点の話というのは、とかく、読みにくい。



さっき書き終えたブログの記事は、そういう記事だった。




ふと足を止めて、周りを見回して、鳥の鳴き声を身にしみこませたり、遠くの山を写真に撮ってみたり、足下のタンポポをよけてみたり、そんなかんじの、「静かにきょろきょろしている人」くらいの文章に、ぼくはあこがれるし、そういうのを書こう書こうとこれから20年やってみて、ようやく誰かに読んでもらえるものができるのかもしれない。

2017年6月14日水曜日

病理の話(89)

先日、内視鏡(胃カメラ)の医師4名と、定山渓温泉で合宿をした。ぼく以外にも病理医が1名参加したので、合計6名。

内視鏡医たちは、胃カメラの写真をいっぱい持ってくる。

映り込んでいる病気をみて、これはどのような病気なのか、そもそも病気と考えてよいのか、がんなのか、がんではないのか、がんだとしたらどれくらいのサイズなのか、どこまでしみ込んでいるのか……。

胃カメラドクターたちが激論を交わす。

そして、採られてきた病気に対して、今度は病理医が、顕微鏡像の説明をする。

なぜこの病気は、胃カメラであのように見えたのか。

プレパラートをPCに取り込んだ「バーチャルスライド(VS)」というシステムを使って、細かく対比をしていく……。


ぼくはこれらのディスカッションを、横で聞きながら、ずーっとPCを叩いていた。会議録を残すためである。

専門的な会話は、医学系出版社の編集者であっても、文字起こしが難しいときがある。だから、胃カメラと病理、両方の話がまあまあわかるぼくが、記録役を担当する。



定山渓温泉、と言いながら、風呂にも入らず、やってきた服のままで、ディスカッションは深夜に及んだ。

今ぼくは、書き上がった原稿を眺めている。

実は、ぼくもそこかしこでしゃべっている。書記役ではなく病理医役として参加しているのだから当然だ。

自分のセリフについては、しゃべりながら自分でキータッチをするのが大変で、さすがに自分では全て記録しきれておらず、編集者さんに録音から文字起こししてもらった(ありがとうございました)。




読んで、思ったことがある。

うわぁ、ぼくの病理の説明、長いな……。

必要なことをきちんと、丁寧に、正確にしゃべろうとするのはまあいいんだけど。同じ内容をくり返し語って冗長になっていたり、一つの文章の中で結論が二転三転したり、文字にすると、とてもわかりにくい……。



「文字にすると」? そうなのだろうか?

実際、聞いている方は、理解するのが大変だった、ということはないだろうか? あのときみんなは、どういう表情をしていただろうか。

うーん……。



病理医が、あれもこれも伝えようと、思い悩みながらしゃべること自体を「悪」とは思わない。

思い込みや自分の意見を語ってはいけない、わけでもない。

レポートを全部英語で書くことにこだわる病理医もいるし、論文化したデータ以外は絶対に口にしないと決めている病理医もいる。表現の仕方はさまざまである。みんな、それぞれに、一家言があり、自分のやり方に思い入れもあろう。

しかし。





ぼくは、病理医を言い表す言葉としての「ドクターズ・ドクター(医師のための医師)」という言葉があまり好きではない。むしろ嫌いである。ドクターということばを敬称のように用いるのがまずあまり好きではない。「先生」とは、研修医ひとりひとりの名前を覚える気が無い看護師が、毎年入れ替わる初期研修医をひとからげにして呼称するのに便利な、蔑称にすぎないとさえ思っている。

ただ、「ドクターズ・ドクターの理念」はわかる。

普通の医療者が、患者を相手に、説明や納得を得ることに腐心するのと同じくらい、病理医は(患者を相手にしないかわりに)医療者に対して説明をし、納得を得ることに腐心する。

普通の医療者のお客さんは患者。

病理医のお客さんは医療者。

普通の医療者が、少しでも患者がわかりやすいように話そうと工夫を凝らすのといっしょだ。「医療者がわかりやすいように話す」というのは、「病理医が職務としてやらなければいけないこと」である。やったほうがいい、とか、できればベター、というレベルの話ではない。絶対にやらなければいけないことだ。



ふだん、臨床医相手に会話をしていて、たまに、わかりやすいとか、おもしろいとか、言われて少し調子に乗っていた気がする。

ぼくのしゃべる言葉は、文章にしてみると、そこまでわかりやすくはないぞ。

少なくとも、文字起こししたものを見る限り、ぼくの言葉は、誰よりぼくが聞いてあまりわかりやすくないぞ。



これは一大事だ、と、思ったのである。職務に必要な能力をもっと磨かなければいけない。

人それぞれであろうが、ぼくが今やっている仕事に対して、もっとも必要な能力とは何か。それは、情報処理能力と、コミュニケーション能力なのである。

まずいまずい、コミュニケーション能力を磨かないと……。

2017年6月13日火曜日

大人論を語るのは全員子供

仕事の合間に本を読んでブログを書いて、3DSやswitchをやって、あまり運動はしていなくて、外食はコンビニ系が多くて、という今の生活、たぶんぼくが高校生くらいの時に思い描いていた理想の生活なんだけど、それはなぜかというと、とりあえず、

「自分のやったことが自分の責任のもとに自分に結果として返ってくるということ」

が守られているからであって、ああ、大人になってよかったなあと思う。



昔から、自分で考えたことを自分で実行しても、何かやらかしたときにほかの大人が責任を負わなければいけない状態というのが、なんだか申し訳なくてしょうがなかった。

たとえばこの受験に落ちたら親が悲しむんだろうなあ、みたいなことが激しいストレスとなって首の痛みを引き起こしたりしていた。



今、ぼくが何かやらかしたら、ぼくがひどい目にあうので、ぼくはやらかさないようにしようと思う。

今、ぼくが何か失敗したら、ぼくが悲しい思いをするので、ぼくはなるべく失敗したくないなあと思う。

これらの思考が「あたりまえ」になるのに、ぼくの場合、生まれてから24年ほどかかり……。

いや、24年ではすまないな。

医師免許をとっても、最初から医師として責任もって働けるわけではなかったし。

大学院でちっとも研究がうまく行かない時期も、所詮は大学院生だったわけで、指導教官の評判が落ちるだろうなあというのを申し訳なく思っていたし。

病理専門医を取るまでの間、全ての診断はボスのチェックを終えてからじゃないと出すことができなかったし。



……今でも、診断はダブルチェック(自分が見たものを誰か他の人にチェックしてもらう)だけど、かつてに比べると、だいぶぼくは、自分の仕事、自分の言葉に、自分ひとりで責任を負わなければいけないようになった。

まだ医師15年目だけど。そろそろ、ひとりでしっかり責任をとる場面も出てくる。



ぶっちゃけ、この瞬間を待っていた。ずうっと、待っていた。

責任は重いし取りたくない。けれど、自分のした何かのせいで、ひどく重い責任を、誰か他人、それも大事な他人に負わせなければいけなかった、今までのほうが、ずっとつらかった。



そうか、ぼくは、だいぶ大人になりたかったんだなあと思う。

2017年6月12日月曜日

病理の話(88)

病理学会の「社会への情報発信委員会」というのに参加することになり、こないだから「CCメール」がいっぱい回ってくるようになった。

今は、一般向けの「病理の告知動画」というのを作っていて、いかにも大変そうである。途中から参加したのであまりエッジの利いた関与ができていない。早くひっかきまわしたい。

「教授」であり「えらい」はずの人が作った、動画の絵コンテを、「もっと偉い」ひとたちが、「理事会」を開いて注文をつけている。申し訳ないが笑ってしまった。

社会への情報発信委員会の中だけでは完結できないんだなあ。いちいち拡大常任理事会にかけなければ広報できないのか……。

気持ちはわかる。しかし、この時代にそのスピードでは、刻々とうつりゆく社会の「ウケるポイント」を掴みきれず、動画の方向性もなかなか定まるまい。

あきれて眺めていたのだが、そのうち、少しずつ、ぐぐぐっ……と感じることがあった。何かがわいてきた。



そうだよな……、病理とひとことに言っても、当事者によっていろいろな「病理の仕事」があるよな。えらい人や年を取った人には、今までの輝かしい人生の中で、これと信じてやってきた道があるだろうし、病理をはじめたばかりの研修医がもっている病理のイメージも、ふわふわかもしれないが、きちんと像を結びはじめてはいるだろう。

老若男女それぞれが、みんなにもの申したい「俺はこんな仕事をしてるんだぜ」という像がある。

普段、誰に見せびらかすでも無く、ほこりをもってやっている仕事に、自分の心のなにがしかを投影して、まるで毎朝鏡を見てから出勤するときのように、「よし、今日もしっかりやっているな」と、自分に言い聞かせる、何か。



そこへ飛んで出た「動画作成事業」に、理事会のお偉方も、教授陣も、若い広報担当たちも、きっと今まで静かに秘めていた「病理とは、かくあれかし」みたいな像をぶつけているのだ。

動画の方向性が定まるわけがないのだ。

元気玉みたいに、みんなのエネルギーが集まるのをじっくりと待って、大きく育てて、ぶっぱなさないといけないものなのだ、学会とか学問を「広報する動画」なんてものは。

そう考えるに至って、ぼくは、委員会が迷走しているのではなく、むしろ我慢強く、みんなが納得できるような姿を求めて大人の耐えしのびをやっているのだなあと、気づいた。




人臭くておもしれぇよな。ぼくもこれから、とても広告代理店の皆様方にはお見せできないほどの、どろくさい広報とやらに本腰を入れて取り組むことにしようと思います。


一度、ツイッターでやろうと思っていたくらいだから、ぼくにだって、一家言はあるわけですよ。

2017年6月9日金曜日

おさむの予測変換で治虫が出てくることのすごさを噛みしめる

ここ数回の記事を書いている最中に思ったのだが、病理の話と言いながら必ずしも病理の話になっていないし、病理の話とタイトルに付けていない回でも病理に触れていたりしている。

そうだな、病理医なんだから、書く内容は毎回どこか病理医からの視点ではあるわけだし、病理の話とそれ以外、と、話をきれいに分けられるものではないよなあ。

そんなことを考えていた。


……けれど世の中にはすごい人がいて、自分の得意な領域とか専門としている分野をいくつも持っていて、その分野ごとに違うテーマで、違う読者層を相手に、ものを書いている人などというのもいる。

その代表は「手塚治虫」だと思う。

少女マンガも書けるし。子供向けも書けるし。エロも行けるし。


手塚治虫の絵というのは、どれもこれもぜんぶいっしょだ。「あっ、手塚治虫だ」とわかる。

しかし、ターゲットが違うと、ストーリーが変わり、コマ数が変わり、(マニアックだが)登場人物の表情の変化率が変わり、背景の書き方やセリフの量などもすべて変わっている。



一見しただけで「あっ、手塚治虫が描いてるな」とわかるほど特徴があるのに、読み進めていくうちに、「絵柄が同じであるにもかかわらず、描き方が違うとしか言えない」処理がされているのが、ほんとにすごいと思う。



ぼくは、病理の話を書くときも、それ以外のことを書くときも、たぶん句読点の打ち方とか、こまかな言い回しとか、脳内にある風景を展開するときの視点の高さとかはほとんど変わっていないのだろうと思うが、そこを変えずになお、ターゲットに応じて、受け取り手がよりわかりやすいような文章を書けるのだろうか……。

そ、そんなこと、無理なんじゃねぇのかなあ……。




ということでこんどから、ぼくは、こどもむけにかくことに、しますね! やんでるおじさん と よんでね!

2017年6月8日木曜日

病理の話(87)

医学部の6年間、どのように学ぶかというのは、大学によって少しずつ違うようだが、最初に学ぶ「医学らしい講義」は解剖学である事が多い。

このことは、部活・サークルの先輩からの「申し送り」でもよく触れられる。



ホワン ホワン ホワン メムメム~(回想に入る音)



「まずは解剖からだなーがんばれよー後輩ー」

「はいがんばります!」

「まあノート貸してやっから」

「はいありがとうございます!」

「でもな、ほんとは解剖ってな、卒業して10年くらい経ってから、すげぇやりたくなるんだと」

「どういうことすか」

「いや、つまりな、医学部の2年とかでやるけどさ、どうせ卒業するころには忘れちゃうんだよな」

「そりゃ普通そうでしょうけど」

「でも、忘れてからしばらくして、あっ、もう一回、今こそ解剖やりてぇ! って時期が来るんだと」

「ま、マジすか」

「現場に出て、はたらきはじめて、医学とか医療のことがだいぶわかるようになって、はじめて『あっ、あそこの血管をすげぇ見てみてぇ!』ってなるんだって」

「はあ、血管」

「ほら、はあ血管、ってなるだろ。それが普通だよ。解剖っつったらさ、普通はさ、心臓がどうとか、肺がどうとか、筋肉がグロいとか、そういうイメージじゃん」

「ていうか系統解剖ってそういうもんじゃないんすか」

「いやな、現場で働き始めるとな、どこに何の臓器がある、みたいな『医療者の常識』レベルの解剖知識じゃなくて、もっとすげぇマニアックな、血管や神経の走行とか、胆管と門脈と膵臓の関係とか、尿管と後腹膜の関係とかさ、どの動脈がどこから分岐して、それにはどれだけのバリエーションがあるとか、そういうのをめちゃくちゃ知りたくなるんだと」

「なんすかそれ」

「胸腔内穿刺するならこことここを避けなきゃだめだ、それはここに神経が走っているからだ、とかさ」

「ま、マニアック……」

「そうなんだよ……」


メムメム~



で、まあ、なんかみなさん見飽きたであろう「会話形式」のブログを書いてまで何を伝えたかったかというと、

「病理学」

というのもまさに解剖学と一緒なのである。

学生時代に学ぶ病理学は、医療のことも医学のことも事実上なにもわかっていない素人に、「学問としての医学」を叩き込むついでに教え込まれるもので、それはもちろんすごくアカデミックで重要な情報をいっぱい含んでいるんだけど……。

病理学つまんね、病理医になんかなんね、そう心に決めて臨床医になった人のうち、実に1/3の人々は、10年後、15年後くらいから急に病理を学びたくなってしまうのである。たとえば、がん診療に携わる人。放射線科で診断をする人。とにかく手術をする人。今あげた人々は、必ず言うのだ、「病理をもっとちゃんとやっておけばよかった……」。

正確には、学生時代の純学問的な病理学をいくら極めていても、臨床医になって10年もすると、もっと「実践的な病理」を学びたくなる。




病理学は、細胞がどうとか、核がどうとか、顕微鏡で見てどうとか、遺伝子変異がどうしたとか、メチル化がどうしたとか、そういう話がとにかく「すべてのキホン」なのだ。けれど、あくまでこれらは「とてもたいせつなキホン」に過ぎない。

解剖学で、学生時代には気にも留めなかった血管の走行が、臨床医になってから妙に気になるのといっしょで。

病理学では、学生時代大事だと思っていなかった「病気の肉眼的な形状」とか「細胞どうしの繋がり方」とか「腫瘍の周りに起こっている間質の反応」などが、臨床医になると途端に見てみたくなるのである。知りたくなるのである。



今、書いてて思ったんだけど……。


勉強には、「何の役に立つかわからない時期の勉強」と、「役に立てようと本気になっている時期の勉強」とがあって、それぞれの時期で学べる内容ってのはだいぶ違うんだよなあ。

そのことを知っていて、なお、「学生時代の講義をおもしろくできる人」というのがいたら……。

その人はきっと、とてもすごい人なので、ぼくは、そういう人の講義を聴きに行ってみたいなあと思うのだ。

幾人か心当たりがある。来年あたり、潜り込んでみようと思っている。

2017年6月7日水曜日

マッチングを2倍にしたらママッッ

この間から「人事」のことを考えている。人事という文字を見続けてゲシュタルト崩壊したあげく、「人妻」に見えてしまうくらいには脳が疲れている。

偶然ではあるが、人事と人妻、この2つの言葉には、共通するニュアンスが秘められている様に思う。あるいは、言葉がもつ「言霊」的なものがちょっとだけ似ているように思う。

多分にぼくの個人的な印象でしかないが、両方とも、「あなたのためだ、と言いながら、実はわたしのためでもあるんだよね」というニュアンスを潜在的に秘めているように感じる。

いい意味、悪い意味、どちらでもない。

人事とは、「ひとを扱う事」であり、雇われる人のためという雰囲気をかもしだしつつも、実際には「雇う方がこれから楽に仕事をするために他人を配置しよう」というはたらきのこと。

人妻とは、「ひとの妻である」と従属するような雰囲気をかもしだしつつも、実際には主従関係を望むわけではなく、「自分の人生をよくするために、誰かの伴侶である状態を選んだ人」のこと。


ここには、あやうさが潜んでいる。

人妻の話をしたいのはやまやまだが、今日は人事の話をしたい。あやうい人妻の話とは最高に魅力的ではあるが、あやうい人事の話を書く。もっと具体的には、リクルートの話、新人採用の話について書こうと思う。ぼくは病理医だから、これから病理医になろうと思う若い研修医をリクルートするときのことを例にあげる。



新人採用人事を巡るよしなしごとにおいて、一番状況を複雑にしているのは、先ほど少し書いた「あなたのためだ、と言いながら、実はわたしのためでもあるんだよね」という、建前とホンネの関係ではないか。

より悪意を込めて書くならば。

「立場を盾に取りながら、やっていることは結局個人的な都合の押しつけ」という人事が多いように思うのだ。




若い研修医が、将来、病理医になりたいと言っている。ありがたいことだ。さあ、どこで研修をしたらよいだろう。相談を受ける。

ぼくは、若い人に、

「うちに来てくれたら助かるなあ。うちも大変なんだ。がっちり指導するから、5年くらいで即戦力になってほしいなあ」

と言う。

すると、若い人は、

「5年ですか……できれば10年くらい、がっちり勉強をしたいんです。だいいち、5年で一人前になれるものですか?」

と不安になる。

「まあ、無理だよね……。だったら最初はうちじゃないほうがいいかなあ。うちは、ある程度病理の基礎ができている状態で来た方が、効率的な勉強ができると思う」

と、返事をする。研修医はうなずく。

「こないだ見学した病院では、いろいろな関連病院を回りながら、じっくり10年くらいかけてやりたいことを探せばいい、と言われました。そこで勉強して、一人前になってみせます。ぼくが一人前になったとき、先生の病院の枠が空いていたら、やとってくださいね(笑)」

「そうだね。がんばって」





「いろいろな病院を回りながら」ね。

それ、指導側の都合なんだよね。

指導医の数とか、症例数が、足りないと、ひとつのところでは指導がしきれないんだよね。

正直に、「うちの関連病院はどこも人が足りないから、あちこちでこきつかわれると思うけど、人脈が広がるし、症例数も手にはいるよ。そういう教育でよければ、うちにおいでよ」って言えばいいのに。




建前がだめでホンネがいいと言いたいわけではないのだ。

そうじゃなくて、ニュアンスがちょっとずつずれるようなリクルートをしていたら、「欲しい人材」と「働きたいと思っている人」とのマッチングも、ちょっとずつずれていくんじゃないのかなあ、と思っているのだ。

うーむ。

正直なだけでは、人は集まってこないよ、って? そりゃそうなんだけど、なあ。

2017年6月6日火曜日

病理の話(86)

最近あらためて思うこと。

臨床医が病理医に期待していることの多くは

「決めてほしい」

であるなあ、ということ。



病気の一部を採取してきて、がんか、がんではないのか、「診断名を決める」。

がんだとしたら、どういう種類のがんなのか、どのような治療が効くと予想されるのか、今後これがどのように育つのか、「詳細な分類を決める」。

画像で見えた病気が、「なぜこのように見えたのか」を、組織像を見て考えて、「画像の理由を決める」。

ある遺伝子変異があるとなぜ病気につながるのか、「メカニズムを決める」。



医療の現場において、決める、という作業は、ときに、残酷だ。



臨床医は、患者さんに向かって「あなたはこうです。」と断定することに大きな困難を感じるのだと言う。医学的にはいろいろな可能性が考えられ、確率とか統計の話をしなければいけないシーンでも、どこかで「決めて」話さなければ、患者と医療者の二人三脚は完成しない。

どこかでぐっと決めて踏み込まないといけない場面がある。

でも、医療とは本質的に、推測の技術である。「未来に少しでも長く生きられるように」「今後すぐ命が失われることのないように」「これから少しでも楽な生活ができるように」と、まだ定まっていない将来の話ばかりをターゲットにして、今どのようにかじ取りすればよいかと推定していくことこそが、医療なのだ。「予言」とか「予報」的な性質が強い。

そして、医療は、あやしい予言とは違う、あたらない天気予報とも違う、少しでも確度の高い予測をするために、統計学を持ち出し、疫学を振りかざし、エビデンスを装備する。

簡単には「決めきれない」。けれど、誠実でありたい。これが医療だ。




でも。

患者は、決めてほしい。

可能性とかいう言葉でお茶をにごさないでほしい。

決めきれない医療者は……医療者も……、内心、こう思っている。

「おれだって可能性とか確率の話なんざしたくねぇよ、あなたは100%この病気ですとか、これやったらスッと治りますとか、言えるものなら言ってみてぇよ!」




患者も、医者も、内心、医療の世界に「ビシッと決まる推測」があるなんて、ほんとうは思っていない。





そこに病理診断が出てくる。「細胞を見てるんだから、決められるでしょう」。期待がかかる。細胞の「良悪」どちらかは決めてくれよ。がんか、がんじゃないかを、決めてくれよ。

画像でなぜ造影効果に差があったのか、決めてくれよ。へりの部分と真ん中の部分でタンパクAの発現量が違う理由を決めてくれよ。がんの背景粘膜に起こっている所見との因果関係を決めてくれよ。

生きるか死ぬかを、決めてくれよ。




そのつらさを共有しながら、「ここまでは言える、ここまでは確定できる、ここから先はわからない」というラインを、医療者や患者と共に、引き直す。

できれば、細胞を採った分……検査がひとつ増えて大変だった分くらいは、確定ラインを先に進めたい。

採った検体を様々に活用する。Deeper sectionの作成、特殊染色や免疫組織化学のオーダー、遺伝子検査へつなげるかどうか……。

全部決めるなんて無理だよ、そう言いながらも、心のどこかで、「臨床医よりもう一歩だけ深く結論を出せるだろうか」と、争うように、煩悶する。

ぼくらの口から出た言葉が、「決まった」「決められなかった」のどちらになるかはわからないけれど、「決めてくれよ」と祈った人がいたのだということを知ったうえで、決めに行くのが仕事なのだ。

ちょっとだけフォワード感があるなあ、と思う瞬間でもあるのだ。

2017年6月5日月曜日

Can no say

気持ちのいい天気が続いている、と書こうと思ったが、これを書いている日の朝のニュースで「全国的に雨不足、農作業に懸念」と言っていたので、うーん、天気がいいって話だけでもナイーブになっている人はいるからなあ、と思って、書くのをやめようかと思った。いったん書こうと思った話をやめにする、という内容の話でスタートした記事を作成している途中、いったん書こうと思った手紙を事情あって破り捨ててしまったばかりの人が読んでつらい気持ちになっては申し訳ないと思うし、いったん書こうと思った話をやめにするのも人を傷つける可能性があるなあ、と思ったので、この話をやめるのをやめにして、やはり書くことにする。書くと思ったけど書くのを辞めたけど、でもやっぱり書くことにした、という右往左往を読んでいただいている最中ではあるが、以前に読んだ「病理診断の書き方」みたいなコラムの中に、「ひとつの文章の中に ~~ですが、~~ですが、~~、のように、何度も何度も意図をひっくり返すととたんに読みづらくなるから、可能性を列挙するのはいいけれども書き方には注意せよ」とあったのを思い出したので、あまり左右の考え方の間でぐらぐら揺れるような文章を書いてしまうと、読み手の脳に負担を与える可能性があるなあ、と考え直し、やはりこの文章を衆目に晒すのはやめようかなあ、と思い始めたところで、可能性という言葉が2連続で登場したことに気づき、いけないいけない、同じような言葉を連続して使うと読み手がひっかかるから、記事を作成している途中ではあるが、読んでいただいている最中でもあるけれども、あまり同じような言葉を連続して使って読み手をひっかからせるようなことはやめた方がいいなあと思い、書くと思ったけど書くのを辞めた記事をやっぱり書くことにした右往左往を読ませるのはやめようかなと書いて読んでいただこうと思った記事を公開するのをやめようかなあ、と思っているのだが、月曜日の朝だが、ここで公開しないと楽しみにしている人も多いだろうが、このままどこに着地するかを楽しみにしている人もいる可能性があると思い、公開することにする。

2017年6月2日金曜日

病理の話(85)

伝わるレポート・伝わらないレポートということを日々考えていると、意思疎通の際に重要なのは「お互いに歩み寄ること」だなあという当然の結論が、毎回チラチラ脳内で踊る。


たとえば、臨床医が「がん」だと思って採ってきた、小指の爪を切ったかけらよりもまだ小さいカケラに、がんが含まれていなかったとき。


「検体内にがんは含まれていません」とレポートを書くと、この言葉、受け取り手によって様々に拡大解釈される。

ある人はこのレポートを読んで、

「検体内に含まれていない、ということは、検体の外(採らなかった部分)にはがんがあるかもしれないんだな」

と受け止める。また、別の人は、

「なんだこの人はがんじゃないのかー」

と納得してしまう。


これらは似ているようで、まるで違うのだ。前者は、たとえば、がんだという確定診断を付けていないままに手術に臨んでしまうリスクを負っているし、後者は、たとえば、がんなのに検査をやめて放置してしまうリスクを負っている。


だから、病理医は、自分の書いた言葉が勝手に拡大解釈されては困ると、いろいろなコメントを付けることになる。その最たる言葉が、

「臨床情報とも併せてご検討ください」

である。


病理だけで話を全部決めつけてはいけないよ。臨床情報と照らし合わせることが必要だよ。毎回のようにこの言葉を添えて投げ返す。


けれど、やっぱり、ぼくは、この言葉だけで投げ返したところで、十全のコミュニケーションというのはできないだろうなあ、と思っている。


言葉というものは、連続して使えば使うほど、ありがたみが薄れてしまうものだ。病理レポートを書く度に「臨床情報と併せてご検討ください」と付記していれば、いつしか言葉は形骸化する。

ああそうだねわかってるよ、と、既読スルーされてしまうケースも増えていくように思う。



ぼくは臨床医が書いた依頼書を読んで、分からないことがあったとき、まず自分で調べて、内視鏡やCTの画像も自分で見てみて、この臨床医が何を知りたがっているのか、思考をトレースすることにしているのだが……。

基本的に、自分の脳内だけで相手を勝手に「予測」することは控えて、なるべく電話をするようにしている。

「先生、依頼書に『がん疑い』とお書きになってらっしゃいましたけれども、この人、ほんとうにがん疑いなのですか?」

たいてい、ぼくの想像と9割方同じ、つまりは1割「も」異なる声が聞こえてくるのだ。

「ええ、がん疑いなんですよ。患者さんにもボスにもそう言って検査に入ったんですけどね。でも内心ぼく、良性なんじゃないかと思ったんですよね。根拠は書かなかったんですけど、実は拡大内視鏡でこの所見が……」

がんを疑って採られた検体であれば、ぼくは無意識に、プレパラートの中にがんを探しに行く。

でも、がんじゃないかもしれないぞ、と思って採られた検体だと、プレパラートの見方は微妙に異なってくる。

話が違うのだ。おおっ、となるのだ。

ちょっとギアを変えないといかんなあ、となるのだ。




もちろん、常日頃から、臨床医の言葉がどのように綴られていても、プレパラート内にすべての世界を読めるように訓練しておくのが、病理医としてはベストな働きかたなのだろうな、とは思う。

けれどぼくはベターでもいいから、臨床医たちに教わりながらいっしょに仕事をするほうでありたいのだ。

同時に、自分の書いたひと言は、おそらく9割は伝わるだろう、1割はたぶん伝わらないな、と思っている。



言葉というのは難しい、慎重に書こうが大胆に記そうが、必ず「自分の意図、欲望、バイアスを乗せて、自分の読みたいように読み取ってしまう人」というのがどこかに現れる。

ぼくらはみな、自分とフィットする文字を、視界のどこかに探しながら日々を暮らしている。

それは病理診断の報告書であっても、一緒なのだ。だからこそ、読み手がいつも誤読するものだ、表現は必ず最後までは伝わらないのだ、と、肝に銘じてコミュニケーションしていかないといけないだろうなあ、と思っている。

2017年6月1日木曜日

ピコピコ招宴

ノスタルジーを楽しむというのはわりと普遍的な感情じゃないのかな、と思うのだけれど(普遍的という言葉が合ってるかどうかはおく)、中でもゲームの音楽というのは個人的にかなりツボなのである。

ゲームを全くやってなかった人は、昔の何を思い出すのだろう。風景? 音? におい? 風の肌ざわり?

ぼくは、ゲームをどこで誰とどうやっていたかはそこまで深く覚えていないのだが、とにかくゲームのピコピコ音をよく覚えている。

ファミコンソフトを買った順番に言える。

忍者じゃじゃ丸くん、ギャラガ、サッカー、スーパーマリオブラザーズ、本将棋、計算ゲーム、ハイドライド・スペシャル、ドラえもん、新人類……。

ぼくはこれらの音楽をほとんど覚えている。本将棋の場合は音楽というより「待った!」の音声だけど……。あと、ハイドライド・スペシャルだけは音楽を覚えていない。かわりにはじめからLV9になるパスワードを覚えている。「AQEG6BBAGMB2B4」である。



なんだろう、音の力ってこういうことなんじゃないのかなあって、けっこうおおまじめに思っているのだ。

人間の記憶の仕組みというのは完全に解明されていない。

長期間に亘って決して脳から離れない記憶なんてのは、どういうメカニズムで脳に定着しているのだろうか。

そもそも、そんなに長い間何かを覚えていなければならないというのは、生存に必要なことなのだろうか?

数十年にわたって脳から失われてはならない記憶というのは、人間という生き物が生存していく上でなにか有利になっただろうか?

細かい会話内容とか、各人との思い出とか、自分の考察内容などは、きっと、せいぜい5年とか10年も使い回せば次のものに更新していけたであろうし、30年以上も覚えている必要性がない。生存に有利なことが特に起こらなさそうだ。

もっとプリミティブな、たとえば、「くり返しさらされ続けた野獣の声」とか、「くり返し安堵を覚えた澤の水音」であるとか、そういう、自分を生涯にわたって安心の方向に持って行く「音」だったら、どうだろう。

いくつになっても、異形を示す遠吠えがすればおののき、そこから離れようとすることは役に立ったろう。逆に、敵がいないことをほぼ確信させる音というのもあったかもしれない。それは火のはぜる音だったかもしれないし、周りに人がいることでわき起こる不思議なリズムであったかもしれない。



ぼくは、音ばかりがこうして30年も残るのにも、もしかしたら何か意味があるんじゃないのかなあと、思っている。