2017年6月28日水曜日

病理の話(94) 病理医が足りないから病理医になってほしいわけじゃない

ほんとうに病理医は足りないのだろうか、ということを最近考える。

そもそも、世の中に「足りている職業」なんてあるのだろうか。

どこだって人手不足である。

医療業界で、スタッフ数が潤沢で、診断も治療も最新・最高を常に維持できていて、患者もみんな満足してニコニコしている場所なんて、どれだけあるのだろうか。

夜昼問わず尽力する善意の一人によって成り立っている救急医療現場。次から次へと訴訟のリスクを抱える出産現場。神の腕を求めて殺到する患者。学会出張に行くと閉じられる外来。年年歳歳右肩上がりに増える申し送り事項。払われたくない金。病気は医者の都合を待ってくれない。病気は科学の進歩を待ってくれない。足りない人。足りない科学。足りない幸福……。




病理医が足りないんじゃない、人はそもそも全部足りない。




今、病理医は全国に2300人、うち半分強が50代後半以上であり、半分強が大学と紐づけされており、病理診断に専任する人よりも大学の研究業務と兼任する人の方が多く……。

このままでは病理診断は立ち行かなくなる。すべての医療が止まる……。足りないから、ぜひ、病理医になってくれ。この国の医療を救ってくれ……。



どこか空々しい。

どこだって誰だって足りないのに。

病理がなくなったからって、医療が全部止まるわけじゃないのに。

それは心臓外科医であっても産婦人科医であってもリハビリ医であっても緩和ケア医であっても一緒。

ほかの医療者と同じように、

「病理医がいないことで、誰かがちょっとだけ苦労したり、誰かがちょっとだけ理想から遠ざかる場所が増える」。

国民の幸せの総量がちょっとだけ減り、どこかのがん患者がちょっとだけ早く死んだり、どこかの病人がちょっとだけ診断が遅れて人生をちょっとだけ悪くする。


「ちょっとだけ」だ。


誰かの人生を大きく動かす、ちょっとだ。やじろべえを最後に倒す、指の一押しみたいなものである。




ぼくは北海道という田舎にいるから、田舎のことにとても関心があるけれど、北海道のあちこち、本当にあちこちに、

「病理医がいなくて、病理診断が破綻している病院」

がある。いっぱいある。すでに、ある。

ではそこでは医療は終わっているのか? そんなことはない。もちろん、病理医がいる病院と比べると、ちょっとだけ不便で、ちょっとだけ高次医療ができなくて、ちょっとだけ患者の満足度も落ちるかもしれないけれど。

産婦人科が撤退した地方病院。救急医がみんな引き上げてしまった公営病院。医局に切られて外科医が足りなくなった中核病院。

起こっていることはすべて同じである。病理医だけが足りないわけじゃない。

医療は常に、充足していない。




だからぼくは言いたいのだ、病理医が足りないからみんな病理医になってくれではなく、この仕事にはやりがいがあるから、君が病理医になることで、ちょっとだけ医療がよくなると思うから、もちろん、君は何になっても、ちょっとだけ世の中をよくできると思うけど、それは病理であっても同じことなのだ、だから、病理ってのはけっこう働き甲斐があるいい仕事だから、

病理医になってみたらどうか。

と。

ぼくは、「病理医は足りていません」と言いながら、病理のリクルートをするやり方を、もはや、「筋が悪い」とすら思い始めた。

自分がかつて使っていたフレーズでも、ある。反省ばかりの毎日だ。