2017年6月1日木曜日

ピコピコ招宴

ノスタルジーを楽しむというのはわりと普遍的な感情じゃないのかな、と思うのだけれど(普遍的という言葉が合ってるかどうかはおく)、中でもゲームの音楽というのは個人的にかなりツボなのである。

ゲームを全くやってなかった人は、昔の何を思い出すのだろう。風景? 音? におい? 風の肌ざわり?

ぼくは、ゲームをどこで誰とどうやっていたかはそこまで深く覚えていないのだが、とにかくゲームのピコピコ音をよく覚えている。

ファミコンソフトを買った順番に言える。

忍者じゃじゃ丸くん、ギャラガ、サッカー、スーパーマリオブラザーズ、本将棋、計算ゲーム、ハイドライド・スペシャル、ドラえもん、新人類……。

ぼくはこれらの音楽をほとんど覚えている。本将棋の場合は音楽というより「待った!」の音声だけど……。あと、ハイドライド・スペシャルだけは音楽を覚えていない。かわりにはじめからLV9になるパスワードを覚えている。「AQEG6BBAGMB2B4」である。



なんだろう、音の力ってこういうことなんじゃないのかなあって、けっこうおおまじめに思っているのだ。

人間の記憶の仕組みというのは完全に解明されていない。

長期間に亘って決して脳から離れない記憶なんてのは、どういうメカニズムで脳に定着しているのだろうか。

そもそも、そんなに長い間何かを覚えていなければならないというのは、生存に必要なことなのだろうか?

数十年にわたって脳から失われてはならない記憶というのは、人間という生き物が生存していく上でなにか有利になっただろうか?

細かい会話内容とか、各人との思い出とか、自分の考察内容などは、きっと、せいぜい5年とか10年も使い回せば次のものに更新していけたであろうし、30年以上も覚えている必要性がない。生存に有利なことが特に起こらなさそうだ。

もっとプリミティブな、たとえば、「くり返しさらされ続けた野獣の声」とか、「くり返し安堵を覚えた澤の水音」であるとか、そういう、自分を生涯にわたって安心の方向に持って行く「音」だったら、どうだろう。

いくつになっても、異形を示す遠吠えがすればおののき、そこから離れようとすることは役に立ったろう。逆に、敵がいないことをほぼ確信させる音というのもあったかもしれない。それは火のはぜる音だったかもしれないし、周りに人がいることでわき起こる不思議なリズムであったかもしれない。



ぼくは、音ばかりがこうして30年も残るのにも、もしかしたら何か意味があるんじゃないのかなあと、思っている。