2017年6月6日火曜日

病理の話(86) 判断決断決勝弾

最近あらためて思うこと。

臨床医が病理医に期待していることの多くは

「決めてほしい」

であるなあ、ということ。



病気の一部を採取してきて、がんか、がんではないのか、「診断名を決める」。

がんだとしたら、どういう種類のがんなのか、どのような治療が効くと予想されるのか、今後これがどのように育つのか、「詳細な分類を決める」。

画像で見えた病気が、「なぜこのように見えたのか」を、組織像を見て考えて、「画像の理由を決める」。

ある遺伝子変異があるとなぜ病気につながるのか、「メカニズムを決める」。



医療の現場において、決める、という作業は、ときに、残酷だ。



臨床医は、患者さんに向かって「あなたはこうです。」と断定することに大きな困難を感じるのだと言う。医学的にはいろいろな可能性が考えられ、確率とか統計の話をしなければいけないシーンでも、どこかで「決めて」話さなければ、患者と医療者の二人三脚は完成しない。

どこかでぐっと決めて踏み込まないといけない場面がある。

でも、医療とは本質的に、推測の技術である。「未来に少しでも長く生きられるように」「今後すぐ命が失われることのないように」「これから少しでも楽な生活ができるように」と、まだ定まっていない将来の話ばかりをターゲットにして、今どのようにかじ取りすればよいかと推定していくことこそが、医療なのだ。「予言」とか「予報」的な性質が強い。

そして、医療は、あやしい予言とは違う、あたらない天気予報とも違う、少しでも確度の高い予測をするために、統計学を持ち出し、疫学を振りかざし、エビデンスを装備する。

簡単には「決めきれない」。けれど、誠実でありたい。これが医療だ。




でも。

患者は、決めてほしい。

可能性とかいう言葉でお茶をにごさないでほしい。

決めきれない医療者は……医療者も……、内心、こう思っている。

「おれだって可能性とか確率の話なんざしたくねぇよ、あなたは100%この病気ですとか、これやったらスッと治りますとか、言えるものなら言ってみてぇよ!」




患者も、医者も、内心、医療の世界に「ビシッと決まる推測」があるなんて、ほんとうは思っていない。





そこに病理診断が出てくる。「細胞を見てるんだから、決められるでしょう」。期待がかかる。細胞の「良悪」どちらかは決めてくれよ。がんか、がんじゃないかを、決めてくれよ。

画像でなぜ造影効果に差があったのか、決めてくれよ。へりの部分と真ん中の部分でタンパクAの発現量が違う理由を決めてくれよ。がんの背景粘膜に起こっている所見との因果関係を決めてくれよ。

生きるか死ぬかを、決めてくれよ。




そのつらさを共有しながら、「ここまでは言える、ここまでは確定できる、ここから先はわからない」というラインを、医療者や患者と共に、引き直す。

できれば、細胞を採った分……検査がひとつ増えて大変だった分くらいは、確定ラインを先に進めたい。

採った検体を様々に活用する。Deeper sectionの作成、特殊染色や免疫組織化学のオーダー、遺伝子検査へつなげるかどうか……。

全部決めるなんて無理だよ、そう言いながらも、心のどこかで、「臨床医よりもう一歩だけ深く結論を出せるだろうか」と、争うように、煩悶する。

ぼくらの口から出た言葉が、「決まった」「決められなかった」のどちらになるかはわからないけれど、「決めてくれよ」と祈った人がいたのだということを知ったうえで、決めに行くのが仕事なのだ。

ちょっとだけフォワード感があるなあ、と思う瞬間でもあるのだ。