最近あらためて思うこと。
臨床医が病理医に期待していることの多くは
「決めてほしい」
であるなあ、ということ。
病気の一部を採取してきて、がんか、がんではないのか、「診断名を決める」。
がんだとしたら、どういう種類のがんなのか、どのような治療が効くと予想されるのか、今後これがどのように育つのか、「詳細な分類を決める」。
画像で見えた病気が、「なぜこのように見えたのか」を、組織像を見て考えて、「画像の理由を決める」。
ある遺伝子変異があるとなぜ病気につながるのか、「メカニズムを決める」。
医療の現場において、決める、という作業は、ときに、残酷だ。
臨床医は、患者さんに向かって「あなたはこうです。」と断定することに大きな困難を感じるのだと言う。医学的にはいろいろな可能性が考えられ、確率とか統計の話をしなければいけないシーンでも、どこかで「決めて」話さなければ、患者と医療者の二人三脚は完成しない。
どこかでぐっと決めて踏み込まないといけない場面がある。
でも、医療とは本質的に、推測の技術である。「未来に少しでも長く生きられるように」「今後すぐ命が失われることのないように」「これから少しでも楽な生活ができるように」と、まだ定まっていない将来の話ばかりをターゲットにして、今どのようにかじ取りすればよいかと推定していくことこそが、医療なのだ。「予言」とか「予報」的な性質が強い。
そして、医療は、あやしい予言とは違う、あたらない天気予報とも違う、少しでも確度の高い予測をするために、統計学を持ち出し、疫学を振りかざし、エビデンスを装備する。
簡単には「決めきれない」。けれど、誠実でありたい。これが医療だ。
でも。
患者は、決めてほしい。
可能性とかいう言葉でお茶をにごさないでほしい。
決めきれない医療者は……医療者も……、内心、こう思っている。
「おれだって可能性とか確率の話なんざしたくねぇよ、あなたは100%この病気ですとか、これやったらスッと治りますとか、言えるものなら言ってみてぇよ!」
患者も、医者も、内心、医療の世界に「ビシッと決まる推測」があるなんて、ほんとうは思っていない。
そこに病理診断が出てくる。「細胞を見てるんだから、決められるでしょう」。期待がかかる。細胞の「良悪」どちらかは決めてくれよ。がんか、がんじゃないかを、決めてくれよ。
画像でなぜ造影効果に差があったのか、決めてくれよ。へりの部分と真ん中の部分でタンパクAの発現量が違う理由を決めてくれよ。がんの背景粘膜に起こっている所見との因果関係を決めてくれよ。
生きるか死ぬかを、決めてくれよ。
そのつらさを共有しながら、「ここまでは言える、ここまでは確定できる、ここから先はわからない」というラインを、医療者や患者と共に、引き直す。
できれば、細胞を採った分……検査がひとつ増えて大変だった分くらいは、確定ラインを先に進めたい。
採った検体を様々に活用する。Deeper sectionの作成、特殊染色や免疫組織化学のオーダー、遺伝子検査へつなげるかどうか……。
全部決めるなんて無理だよ、そう言いながらも、心のどこかで、「臨床医よりもう一歩だけ深く結論を出せるだろうか」と、争うように、煩悶する。
ぼくらの口から出た言葉が、「決まった」「決められなかった」のどちらになるかはわからないけれど、「決めてくれよ」と祈った人がいたのだということを知ったうえで、決めに行くのが仕事なのだ。
ちょっとだけフォワード感があるなあ、と思う瞬間でもあるのだ。