ここで、話の大筋を「木の幹」に例え、枝分かれする関連事項を「枝」や「葉」に例える。
優れた著者の書く論文は、木の根元からこずえに向かって順番に話を進めていくのだという。一貫して木の幹が把握できるように、枝葉末節にこだわりすぎないように。分岐してもいずれは本幹に戻ってくるように、語る。
一方、日本人に多い「話がとっちらかって何を書いているのかわからない書き方」では、枝葉をいちいち丹念に書きすぎてしまうせいで、なかなか幹が見えてこない、というのだ。
「話の木」を、下から上に登っていくか、上から見下ろしてあちこち浮気しながら降りていくか、という違いだともいえる。
学術論文では、幹の太い方からきちんと登っていくほうが読みやすい。
なるほどなあ、と思い当たる。
ぼくは、わかりにくい語り方をしてしまうタイプだ。
論文には限らない。
日常の、相手のいる会話で、ぼくはしばしば、長尺の、寄り道の多い語り方をする。
以前に先輩にもたしなめられたことがあった。いっちーの話は、オチまでが長いよと。
枝葉を語る時間が長すぎる。
この語り口、いったい何に影響されているんだろうなあ、と考えた。
……落語? 漫談? 水曜どうでしょう……?
へたくそなラジオDJのようだなあと思った。視聴者はいる、意識もしている、しかし相槌を求めずに、自分の言葉ですべての展開をいったん終えてしまう。そして、10分以上語ったあとで、「ではお手紙をいくつか。」と、もらった感想に対してリアクションを述べる。
ほんとうに優秀なラジオDJは、独白であっても、センテンス1つ1つが短い。
そこに声はなくとも、視聴者が合間合間で相槌を打てるように、やりとりをしうるように、間が調整されている。
ツイートも一緒だ。ツイッターはラジオに似ている……。
ぼくはこの「水曜どうでしょう型漫談形式」の会話をこれからも続けていくのだろうか、ということを考えていた。
そうだな、続けるのかもしれないな。
だからツイッターも続けているのだろうな。
ほんとうに視聴率の高いTV番組は、ひとつの会話が1分続かない。極めて短くパックされたボケ・ツッコミが、字幕と共に短時間に叩き込まれる。
けれど、ぼくはどうも、そういう、「お互いが最高に楽しい会話」というのが、いまいち苦手なようで、深夜2時半のFMラジオから聞こえてくる環境音楽みたいな実のない独りガタリの方に、いい年してあこがれているのだ。
HiGEというバンドのボーカル、天才・須藤寿の、ソロプロジェクトの名前は、GATALI と言った。
どうもぼくは、売れそうで売れない、ニッチを攻める、忘れられた王道のような存在に、惹かれる傾向がある、