2017年6月2日金曜日

病理の話(85) 病理診断というねちっこい会話のこと

伝わるレポート・伝わらないレポートということを日々考えていると、意思疎通の際に重要なのは「お互いに歩み寄ること」だなあという当然の結論が、毎回チラチラ脳内で踊る。


たとえば、臨床医が「がん」だと思って採ってきた、小指の爪を切ったかけらよりもまだ小さいカケラに、がんが含まれていなかったとき。


「検体内にがんは含まれていません」とレポートを書くと、この言葉、受け取り手によって様々に拡大解釈される。

ある人はこのレポートを読んで、

「検体内に含まれていない、ということは、検体の外(採らなかった部分)にはがんがあるかもしれないんだな」

と受け止める。また、別の人は、

「なんだこの人はがんじゃないのかー」

と納得してしまう。


これらは似ているようで、まるで違うのだ。前者は、たとえば、がんだという確定診断を付けていないままに手術に臨んでしまうリスクを負っているし、後者は、たとえば、がんなのに検査をやめて放置してしまうリスクを負っている。


だから、病理医は、自分の書いた言葉が勝手に拡大解釈されては困ると、いろいろなコメントを付けることになる。その最たる言葉が、

「臨床情報とも併せてご検討ください」

である。


病理だけで話を全部決めつけてはいけないよ。臨床情報と照らし合わせることが必要だよ。毎回のようにこの言葉を添えて投げ返す。


けれど、やっぱり、ぼくは、この言葉だけで投げ返したところで、十全のコミュニケーションというのはできないだろうなあ、と思っている。


言葉というものは、連続して使えば使うほど、ありがたみが薄れてしまうものだ。病理レポートを書く度に「臨床情報と併せてご検討ください」と付記していれば、いつしか言葉は形骸化する。

ああそうだねわかってるよ、と、既読スルーされてしまうケースも増えていくように思う。



ぼくは臨床医が書いた依頼書を読んで、分からないことがあったとき、まず自分で調べて、内視鏡やCTの画像も自分で見てみて、この臨床医が何を知りたがっているのか、思考をトレースすることにしているのだが……。

基本的に、自分の脳内だけで相手を勝手に「予測」することは控えて、なるべく電話をするようにしている。

「先生、依頼書に『がん疑い』とお書きになってらっしゃいましたけれども、この人、ほんとうにがん疑いなのですか?」

たいてい、ぼくの想像と9割方同じ、つまりは1割「も」異なる声が聞こえてくるのだ。

「ええ、がん疑いなんですよ。患者さんにもボスにもそう言って検査に入ったんですけどね。でも内心ぼく、良性なんじゃないかと思ったんですよね。根拠は書かなかったんですけど、実は拡大内視鏡でこの所見が……」

がんを疑って採られた検体であれば、ぼくは無意識に、プレパラートの中にがんを探しに行く。

でも、がんじゃないかもしれないぞ、と思って採られた検体だと、プレパラートの見方は微妙に異なってくる。

話が違うのだ。おおっ、となるのだ。

ちょっとギアを変えないといかんなあ、となるのだ。




もちろん、常日頃から、臨床医の言葉がどのように綴られていても、プレパラート内にすべての世界を読めるように訓練しておくのが、病理医としてはベストな働きかたなのだろうな、とは思う。

けれどぼくはベターでもいいから、臨床医たちに教わりながらいっしょに仕事をするほうでありたいのだ。

同時に、自分の書いたひと言は、おそらく9割は伝わるだろう、1割はたぶん伝わらないな、と思っている。



言葉というのは難しい、慎重に書こうが大胆に記そうが、必ず「自分の意図、欲望、バイアスを乗せて、自分の読みたいように読み取ってしまう人」というのがどこかに現れる。

ぼくらはみな、自分とフィットする文字を、視界のどこかに探しながら日々を暮らしている。

それは病理診断の報告書であっても、一緒なのだ。だからこそ、読み手がいつも誤読するものだ、表現は必ず最後までは伝わらないのだ、と、肝に銘じてコミュニケーションしていかないといけないだろうなあ、と思っている。