2017年6月14日水曜日

病理の話(89)

先日、内視鏡(胃カメラ)の医師4名と、定山渓温泉で合宿をした。ぼく以外にも病理医が1名参加したので、合計6名。

内視鏡医たちは、胃カメラの写真をいっぱい持ってくる。

映り込んでいる病気をみて、これはどのような病気なのか、そもそも病気と考えてよいのか、がんなのか、がんではないのか、がんだとしたらどれくらいのサイズなのか、どこまでしみ込んでいるのか……。

胃カメラドクターたちが激論を交わす。

そして、採られてきた病気に対して、今度は病理医が、顕微鏡像の説明をする。

なぜこの病気は、胃カメラであのように見えたのか。

プレパラートをPCに取り込んだ「バーチャルスライド(VS)」というシステムを使って、細かく対比をしていく……。


ぼくはこれらのディスカッションを、横で聞きながら、ずーっとPCを叩いていた。会議録を残すためである。

専門的な会話は、医学系出版社の編集者であっても、文字起こしが難しいときがある。だから、胃カメラと病理、両方の話がまあまあわかるぼくが、記録役を担当する。



定山渓温泉、と言いながら、風呂にも入らず、やってきた服のままで、ディスカッションは深夜に及んだ。

今ぼくは、書き上がった原稿を眺めている。

実は、ぼくもそこかしこでしゃべっている。書記役ではなく病理医役として参加しているのだから当然だ。

自分のセリフについては、しゃべりながら自分でキータッチをするのが大変で、さすがに自分では全て記録しきれておらず、編集者さんに録音から文字起こししてもらった(ありがとうございました)。




読んで、思ったことがある。

うわぁ、ぼくの病理の説明、長いな……。

必要なことをきちんと、丁寧に、正確にしゃべろうとするのはまあいいんだけど。同じ内容をくり返し語って冗長になっていたり、一つの文章の中で結論が二転三転したり、文字にすると、とてもわかりにくい……。



「文字にすると」? そうなのだろうか?

実際、聞いている方は、理解するのが大変だった、ということはないだろうか? あのときみんなは、どういう表情をしていただろうか。

うーん……。



病理医が、あれもこれも伝えようと、思い悩みながらしゃべること自体を「悪」とは思わない。

思い込みや自分の意見を語ってはいけない、わけでもない。

レポートを全部英語で書くことにこだわる病理医もいるし、論文化したデータ以外は絶対に口にしないと決めている病理医もいる。表現の仕方はさまざまである。みんな、それぞれに、一家言があり、自分のやり方に思い入れもあろう。

しかし。





ぼくは、病理医を言い表す言葉としての「ドクターズ・ドクター(医師のための医師)」という言葉があまり好きではない。むしろ嫌いである。ドクターということばを敬称のように用いるのがまずあまり好きではない。「先生」とは、研修医ひとりひとりの名前を覚える気が無い看護師が、毎年入れ替わる初期研修医をひとからげにして呼称するのに便利な、蔑称にすぎないとさえ思っている。

ただ、「ドクターズ・ドクターの理念」はわかる。

普通の医療者が、患者を相手に、説明や納得を得ることに腐心するのと同じくらい、病理医は(患者を相手にしないかわりに)医療者に対して説明をし、納得を得ることに腐心する。

普通の医療者のお客さんは患者。

病理医のお客さんは医療者。

普通の医療者が、少しでも患者がわかりやすいように話そうと工夫を凝らすのといっしょだ。「医療者がわかりやすいように話す」というのは、「病理医が職務としてやらなければいけないこと」である。やったほうがいい、とか、できればベター、というレベルの話ではない。絶対にやらなければいけないことだ。



ふだん、臨床医相手に会話をしていて、たまに、わかりやすいとか、おもしろいとか、言われて少し調子に乗っていた気がする。

ぼくのしゃべる言葉は、文章にしてみると、そこまでわかりやすくはないぞ。

少なくとも、文字起こししたものを見る限り、ぼくの言葉は、誰よりぼくが聞いてあまりわかりやすくないぞ。



これは一大事だ、と、思ったのである。職務に必要な能力をもっと磨かなければいけない。

人それぞれであろうが、ぼくが今やっている仕事に対して、もっとも必要な能力とは何か。それは、情報処理能力と、コミュニケーション能力なのである。

まずいまずい、コミュニケーション能力を磨かないと……。