2017年12月1日金曜日

むりだっちゅうねん

最近ちょっと腹の減り方が激しくなった気がする。

この腹からの欲求にそのまま答えたら、中年太りをするのではないか。

ふと、そう思った。



偉そうに言っているがぼくは、すでに中年としての「太り道」の途上にある。体重は青年期よりも3キロほど増えた。筋肉が落ちたのに体重が増えているというのはつまり、そういうことだろう。

今のところ、着やせするような服を選ぶことで、体型を維持しているふりをしている。

もはや待ったなしだ。このまま太っていくのだろう。できれば踏みとどまりたいとは思う。今まで着ていたスーツのズボンが入らなくなるのは残念だ。




本能に従って生きるという言葉には注意しなければいけない。本能のまま食ったら太ってしまうのだから。

本能というのは、理屈とか人の情念を超えたところで、「何かを保とうとする働き」である。一見、従っていれば間違いないように思える。

なんとなく、本能に従って生きれば一番いいじゃないか、と言いたくなる。けれどここには落とし穴がある。




本能が保とうとする一番大きなところは、本人の生命の維持……ではない。

種の存続だ。

自分が命を終えても、種族の遺伝子が後世に残っていくこと。本能というのはぶっちゃけ、そこにつながっている。

本能というとすぐ食欲と性欲と睡眠欲の話になるだろう。種の存続なんていうとなおさらだ。みんなセックスのことばかり考える。

けれど、種族の遺伝子を後世に残すことは、生殖だけでは達成できない。

生殖活動だけしても、いわゆる「子育て」をしないと、ヒトは生命を保てないからだ。脳ばかり大きく闘争と逃走の能力が不完全な、未熟な状態(つまりは赤ちゃん)で生まれてくるヒトは、ただ生めばいいというものではない。

セックスだけが本能であっては困るのである。その先にもさらに本能がないといけない。

社会を形成して子育てをすること。

徒党を組んでお互いを守るということ。

親子だけでは無理なのだ。

兄弟だけでもだめなのだ。

孤独であっては生きられない。

……家族単位では孤独であっても、真の意味で孤独な人間というのはいない。買い物をするだろう。本を読みテレビを見るだろう。言葉を知っているだろう。戸籍という意味ではなく、人間同士のつながりを手段として有している時点で、それは動物的な孤独とは少々異なる。

荒野で一匹遠吠えをするオオカミと、自分は孤独だと泣くヒトとは、周りに冷酷な社会があるかどうかの差分だけ、違う。




ヒトには、自分が生き残りたいとか子種を残したい以外にも本能がある。

だから、少なくとも、本能に従えば、社会を形成するために必要な自分でいることはできるのだ……。



いやまてまて。暴飲暴食をすると命を縮めるというではないか。それはいいのか?

いいのである。

暴飲暴食をすると、統計学的には、50代を超えて生きるのが難しくなる。高血圧、脂質異常症、糖尿病などは、人生の下半期に重くのしかかる病気だ。けれど、50を超えてから死んでも、種の存続にはあまり関係がない。すでに子を産み、ある程度まで育て終わった年齢だ。社会を形成する役割についても、半分くらいは達成できている。

ヒトの本能は、「50歳を超えて生きようと思っている我々のエゴ」には付き合ってくれない、ということだ。





ぼくは50で死にたいとは思わない。

けれど、本能はぼくの50歳以降を助けてくれないはずである。





この悲しい関係に、叛逆をおこすために、何が出来るか。

ぼくは自分が生きていくために、社会を存続させていかないといけないと感じる。

多少の空腹感をおぼえながらも、もっと若いひとたちが社会を便利に使えるように、自分のカロリーを社会に注いでいく。

他人の手伝いであくせくはたらき、きっちりとカロリーを消費してから、食べる。

そうすれば、にっくき中年太りをも、ある程度予防できるのではないか、と考えるのだ。


……そんなことが、可能だろうか……(タイトルに戻る)。