2017年12月4日月曜日

病理の話(146) 語る時間と語らない時間

臨床医からの信頼が極めて厚い病理医というのは、「臨床医との対話の回数が多い」。

そして、勘違いしやすいのだが、「ずーっと仕事中臨床医と会話している人」が病理医として優れているわけではない。



病理医の強みというのは、何百種類もの色のレゴブロックが作り上げた医療という造形物の中で、病理医だけが持つ色・形を持っている、という一点にある。

その強みとは顕微鏡を見て細胞について思いを馳せることができるということだ。

細胞を見ることをおろそかにし、臨床医によりそうように、臨床医療のなんたるかだけを考えている病理医であっては、赤や青、緑で作られたレゴの中にキラリとまじったクリスタルカラーであることはできない。



先日、「濱口秀司さんのアイデアのカケラたち。」という連載の中で、目を引く記事があった。

http://www.1101.com/hamaguchihideshi/2017-11-27.html

いろいろな読み方があるだろうが、ぼくは、コミュニケーションとコラボレーションによって何かをクリエイトするとき、その作業の中に

・ひとりで沈思黙考する時間



・他人のアイデアに触れて、自分の中にあるバイアス(偏り)を排除する時間

の両方があることが重要なのだな、ということを感じた。




病理医が臨床医に寄り添いすぎて、診断学の要諦や治療のありよう、医療のメジャーな問題点などにあまりに共感しすぎてしまうとどうなるか?

それは、「臨床医だって普段から考えていること」を、病理医が一緒になってやっているにすぎない。病理医じゃなくてもできることだ。むしろ、臨床医が得意なことに病理医が興味本位で首を突っ込んでいるようにも思える。

病理医に求められていることは、「臨床医ができること」ではない。

臨床医が持っているバイアスや、臨床医が抱えている死角を、病理独自の視点で潰すこと、病理固有のスキルで問題を大きく揺り動かして解決することなのだ。






多くの仕事を世に送り出している臨床医には、たいてい、懐刀(ふところがたな)とでもいうべき病理医がいる。

先日、ある学会に出ていたとき、ひとりの肝臓内科医と話をした。彼は日頃、「頼りになる病理医」とメールのやりとりをするのだという。

「今日の学会にもいらしているんですか?」

ぼくは尋ねた。すると、彼はこう答えた。

「今日は病理の先生は別のお仕事だからいないよ。あんまり一緒の会には出ないね。ぼくは彼とね、うん、そうだな、年に2回も会わない。何週間に一度くらいのペースで、メールで短くやりとりをするだけ」

ぼくはそれを少なく感じた。コミュニケーションが足りないのではないかとさえ思った。しかし彼はこう続けた。

「でもねえ、その一瞬のメールが、ぼくの考えていなかった部分のフタを開けるんだなあ。ほんとうに、おもしろいくらいに、音を立てて、パッカッって開く。そこからまず、自分で考える。前提を疑う。見ていなかったものを見る。そして、何かまとまったな、と思ったときに、またメールをするんだ。するとね……」

そのアイデアは、さぞかし素晴らしい進歩をしているんでしょうね。ぼくは相づちを打つ。彼はまとめるようにこう言った。

「そう、まず、すごいねってほめてくれる。そしてそこでさらに、ぼくがこれだけひとりで考えまくって完成したアイデアを、さらにひっくり返す……というか、画竜点睛を入れてくるんだな。あれにはほんと参るよ。頼りになる病理医ってやつだ……」




臨床医からの信頼が厚い病理医というのは、「臨床医との対話の回数が多い」。

さらに言えば、臨床医からの信頼が究極に厚い病理医というのは、「臨床医にひとりで考えさせるだけの力をもったひと言」の重みを知っている。

コミュニケーション、コラボレーションというのは奥が深い。

口数が多ければよいというものではないようだ。ぼくは幸い、口数がそこまで多くない方の病理医だったよな。そう思ってツイッターのホームを覗くと、「38万ツイート」ということばが踊っていた。