スポーツをせずただ観るばかりの人、に対する弱いあこがれがある。
高校卒業後、父と弟と三人で、野球を見に行った。東京ドーム、千葉マリン、そして甲子園。それぞれに雰囲気の違うスタジアムであるが、いずれにも実に満足そうな、実に幸せそうな観客たちがいた。
東京ドームでは勤め帰りのサラリーマンたちがビールを何杯も何杯も飲んでいた。
千葉マリンでは後ろの席の女性がずっと「キャーハツシバサーン」と叫び続けていた。
甲子園にはそろそろ立つこともままならなくなっていてもおかしくない、よぼよぼのご老人が、応援旗を振り回しながらときおり「ケェーッ」と超音波を発していた。
彼ら、彼女らをみながら思ったのは、「この人たちはおそらくバットもボールもろくに握らないだろうな」ということ。
「プレー(競技)しなくても、プレイ(遊)するものを手にしている、うらやましい人たちだなあ、ということ。
ぼくはあの日以来、多くのスポーツのルールを学び、見られる機会がある限りいろいろなスポーツを見てみたいと思った。
そして、なにかにつけて、こう言われた。
「頭でっかちなことしてんなあ」
「スポーツは見るよりやるもんだよ」
「にわかだな」
「できもしないのに解説者になりたいのか」
ぼくは少しずつ、スポーツを肴に酒を飲む相手は選ばなければいけないということ、スポーツを語ることは比較的うっとうしいのだということ、うっとうしがられて寡黙になった人たちがスタジアムでは楽しそうに声をあげていたのだろうなということ、などを肌で感じて蓄積していった。
観客で居続けるにはスキルがいる。
ある時間を「観戦」にあててもいいくらい、日常がうまく回っていること。
ひいきの対象が勝っても負けても、スポーツそのものを楽しめるだけの、知恵。
選手がときおり発する感情を共有できるだけの、知識。
ぼくは少しずつ、あの日のサラリーマンや女性の年を追い越し、あの老人に近づいているが、いまだにそれほど頻繁にはスタジアムに通えない。
今でも、スポーツをせずただ観るばかりの人に対する、弱いあこがれがある。
最近このあこがれを、スポーツに限らず、あらゆる職業、あらゆる創作物にも広げたらどうなるのだろう、ということを、ふと思いついた。