2017年12月26日火曜日

病理の話(154) 病理は新たな地図である

子供の頃はぐんぐん知識を吸収するのに、大人になると新しいことを覚えられなくなる……という、「呪い」のようなものがある。

この理由を、「脳の成長や衰え」で説明する人もいるのだが、ぼくはちょっと違った説明を考えている。




子供の頃の脳。最初は、知識や知恵をどのように仕入れていくか。

地理で例えよう。まずは、「東京」の知識をぐんぐん仕入れていく。

山手線を覚える。京浜東北線を覚える。

メトロを知る。首都高を認識する。

23区だけが東京ではない。国立がある。八王子がある。青梅がある。小笠原諸島なんてのもある。



これが、成長するに従い、やがて東京をはみでて、埼玉を知り、神奈川を知り、千葉を知り……。

知恵のフィールドがどんどん大きくなって、少しずつ知恵の深度も深くなっていく。



成人する頃には、日本全土のどこに何があるかを、おぼろげにわかるようになっている。

一度、ある程度の地図が頭に入ってしまうと……。

実は、そこから、「知が増える快感」を得るのが、少し難しくなってくると思うのだ。




かつては、東京の外に埼玉があることだけで喜べた。

千葉に空港があると知るだけでわくわくした。




けれど、いざ全国を見てしまうと、今度は岩国に空港があろうが、新青森に新幹線の駅があろうが、

「ま、そうだろうなあ」

と、ちょっとした「当たり前感」を覚えてしまう。

ローカルな知識は、いつしか、雑学とかトリビアの箱に入れられてしまう。

新鮮みがなくなるのだ。

ありがたみもなくなってくるのだ。





何かを学ぶことに、「雑学感」が出てしまうと、人間の勉強というのはとても効率が悪くなる。

「そんなことはないぞ、私は雑学をおぼえるほうが好きなくらいだ、むしろ学校の勉強よりよっぽど覚えやすい!」

という人も一定の割合でいる。

ただ、雑学というのは、同時に複数のジャンルをおさえることが極めて難しい。

歴史と軍隊に詳しいオタクが、昆虫にも詳しいことはまれである。

広い領域を犠牲にして、一部の深度だけを深めることを選ぶならば、人間はいくつになっても学んでいけるのかもしれない(ただしここには向き不向きがある)。

しかし、「日本全国をまんべんなく」学び続けることは極めて難しい。





今日は「病理の話」の日である。以上の話が、病理の何と関係するというのか。





病理というのは、多くの医療者にとって、「マニアック」な、「雑学的な」、「オタク的な」ものだと思われているふしがある。

地図で例えるならば、北海道の、それも宗谷岬とか、知床岬みたいな、「端の端」だと考えられている。

病理は、出来る人だけがやればいい枝葉末節である、と思われているように思う。





でも違うのだ。

病理というのは、ぼくに言わせると、「あらたな地図」だ。

そもそも病理学というのは、医療を俯瞰する視点であり、生命科学や診断学に通底する概念なのである。

あらたな地図が、たたんだ状態で、置いてある。

それを開かないままに、「もうローカルな地図をマニアックに覚えるのはいいや」と思っている人がいっぱいいる。

けれど、病理は、臨床医学という地図と同じくらいの面積を持つ、色違いの地図なのである。



Google mapで、「航空写真」と「地図」を切り替えると、同じ地域がまるで違ってみえるだろう。あれと一緒なのだ。




臨床医は、ふだん、日本地図を「航空写真モード」で眺めている。拡大縮小、思いのままだ。細かい建物も、大きな山も、すべて見える。

けれど、病理学を修めると、同じ地域を「地図モード」で眺めている自分に気づく。

国道がハイライトされる。電車の路線図が見やすくなる。色彩は失われるが、市町村の区分けはよりわかりやすくなる。




ぼくはこのことにはじめて気づいたときから、誰かに病理の説明をするときに、「枝葉末節の話だけをしてもだめだ」と思うようになった。

大人は、トリビアには辛辣である。よっぽどおもしろいエピソードと一緒に語らないと、細かくてマニアックな穴の奥深くの話には、なかなかついてきてくれない。

けれど、病理は新しい地図なのだ。

世界をまだまったく知らなかった子供の頃に。

地図を眺めて、隣にもその隣にも県が連なっているのだと、感動していたあの頃に。

戻ることができる。

あの頃に戻るような気持ちで、医学をいちから、全く違う視点で、語り直す。




「大人になって、脳も衰えてさ、最近ものおぼえも悪いし、新しいことなんか覚えていられなくなったんだよ。だから、今から病理の話なんてされても、わかんないよ」

こういう人にこそ、病理の話を伝えてみたいと思うのである。