2017年12月21日木曜日

免許はオートマ

人の気持ちを代弁したり、人の気持ちを大きくして誰かに届けたりする仕事というのがあって、それはもういかにも大変そうで、報道とか広告代理店なんてのはそういう信条を抱えて働かなきゃいけないんだからしんどいだろうなあ、と、なんとなく考えていた。

代弁は無理だわなあ。

代表したところで、なんでお前が代表なんだよって怒られるだろうしなあ。

「おきもちのしごと」は、さぞかしこわいだろうなあ。(※こわい、は北海道弁で「体が強(こわ)ばる→つかれる、だるい、しんどい」という意味になります。)



患者の気持ちになるってのは実際むりだ。

患者のほうだって、「あなたには私の今のつらさがわからないでしょう」と言うことが、あるいは言いたくなることがあるだろう。

そりゃあそうだろうと思う。物理的に無理だ、というのもあるが、もし神様が魔法かなにかで「お前は今から人の気持ちがぜんぶわかるのじゃ」とやったところで、複数の患者を相手にしている医療者が患者それぞれの苦しみをぜんぶ共有してたら、たぶん患者より先に死んじゃうだろうな。



だからどうするかというと、お互いの気持ちを完全にわかりあうなんて不可能だと悟った人から順番に、

「ぜんぶがわからなくてもお互い無駄にすりへらずにすむように、ここまでなら傷つくまい、ここまでなら癒やされよう、というポイントを遠回しに攻める技術」

というのを身につけることになる。



わからないならわからないなりの立ち居振る舞いがある、ということだ。

それは別に相互理解をあきらめろってわけじゃなくて、「わからなくても優しくできるようなしくみ」を探すことを早いうちからやっとけよ、ということなのだと思っている。



人は必ず相互にわかりあえる、と信じている人もいるので、その境地に辿り着くなんてすごいなあと尊敬もするが、とりあえずぼくにはそういうことはできないので、わからないけど尊重するよ、わからないけどやさしくありたいよという立場を極めていきたいなあと思うのだ。



残酷なことをいうようだが、ぼくは、上記の考え方はある程度「マニュアル化」できるのではないかとさえ思っている。

世の中は九分九厘、「マニュアル化」に対して批判的な態度をとっているが、ぼくはマニュアルに対して冷徹な人間のやさしさをあまり信じていない。

「説明書をまじめに作ろうと考えている人」に失礼だからだ。

あまり高頻度では遭遇しないが、たまに、「この説明書は丁寧でおもしろいなあ」というのに出会うことは、ある。

すべてのマニュアルを無機質にとらえるというのは思考停止だと思う。

人間同士がわかりあえると信じている人ほど、「マニュアル人間」をバカにする傾向があるように思う。




マニュアルの一行目には、「まず傾聴しよう」と書く。

人はいつかわかりあえるはずだ、と声高に叫ぶ人ほど、相手の話をぜんぶ聞く前に自分の考えをしゃべりだす。

自分を相手にわかってもらうことが相互理解の第一歩だと本気で信じている。

だからぼくのマニュアルの一行目には、「黙って、うなずいて、あるいは相づちをうちながら、相手の話を全部聞こう」と書いておく。

これは多くの医療者が胸にしまっている、問診マニュアルと似ている。

それがマニュアルだからといって、患者が医療者に怒る必要はない、と思う。

だって自分の話を続けることができるのだ。わからないなりに、わかろうとしてくれるのだ。

そのマニュアルの、何が悪いというのか?